1.「待て」ができない
背後に逃げ道はなく、両脇は逞しい腕で塞がれている。
正面にはいやらしい笑みを浮かべた顔があるのを、彼女は見なくとも経験則で知っていた。
彼女はソファに押し倒されていた。
「あーねき」
語尾が跳ねあがっている。
どうやら押し倒している張本人はご機嫌のようだ。
あまり嬉しくない情報に彼女は顔を引き攣らせた。
頭の中ではどう対処すべきかが巡っている。
「こっち向けよ、姉貴」
甘えた声で囁かれるが、誰が向いてやるものか。
そうでなくとも弟に甘いという自覚がある彼女は、顔を見たら流されることを確信していた。
正直声だけでもいっぱいいっぱいなのだ。
ブラコンで何が悪い!
開き直るのはいいが、ブラコンであるせいで追い詰められていることに気づければ幸せだろうに。
「あーねーきぃ、ねぇーさーん、おねーさまぁー?」
声が段々と拗ねてきている。
なんだコイツ可愛いなもう!
馬鹿っぽいところが余計に可愛い。
成人した男性がやって本当に可愛いものなのかという疑問もあるが、それはそれ、これはこれである。
昔の偉人は言ったものだ、”Love is blind”と。
お蔭で可愛いもの好きの血が騒いで仕方がないが、油断したらぱっくりと食べられてしまうので我慢する。
何度か声に負けて目を合わせてしまった時に思い知らされたことである。
放置していれば飽きるだろう。
「あー、もういいや」
うん?と彼女は内心冷や汗を流す。
どうにも雲行きが怪しくなってきたようだ。
ダンテのテンションが、空気が、変な方向へ向かっているように感じられて仕方がない。
もしかしてヤバいのではと、焦った彼女の耳を湿った感触が覆う。
「ふぁ!?」
驚きのあまり妙な声を出した姉に、ダンテは囁く。
「無視するアンタが悪いんだぜ?」
無視してもしなくても結果は同じだというのに、なんという言われようか。
あんまりにも理不尽ではないかという言葉を飲み込んで、諦めたように与えられる快楽をただ甘受した。
2.絶対忠誠!
「お前ってさ、ホンット姉貴のことが大好きだよなー」
『……』
突然主の弟であるダンテに話しかけられ、閻魔刀はただ沈黙を返した。
ダンテは確かに主と連なる血縁であり家族であるが、閻魔刀が仕えいるのは主人のみ。
わざわざ答えてやるほど親切でも人当たりがよいわけでもない閻魔刀は、今回はベオウルフを連れて仕事へと向かった主の無事を想うのみだ。
勝手に自分の柄を掴んでいるダンテに、ふざけんなその汚い手を離せクソガキと、内心毒づいているのはご愛嬌である。
「無視すんなよ。置いて行かれたもん同士、仲良くしよーぜ?」
『……貴様と一緒にするな、たわけが』
答えるつもりはなかったのだが、『置いて行かれた』という言葉が閻魔刀の癪に障った。
自分は決して置いて行かれたのではない。
最近主の家族になったネロという子どもの安全を図るために、見張りと守護を命ぜられたのだ。
いつもはベオウルフが他の魔具と共に留守を守っているのだが、偶には思う存分戦いたかろうと仕事の同伴を許されたのだ。
代わりに留守を任された閻魔刀だが、別段それ自体に不満はない。
敬愛する主人に留守を任されたことは自分のことを信頼している証しであるし、ベオウルフにばかり留守をさせるのは心苦しいという主の気遣いは素晴らしいものだ。
だからこそ、昼間からベッドで寝こけた挙句起きないからと放置された男と一緒にしてほしくない。
『そもそも貴様が飲んでいる酒の金は何処から出ている? 賭けで遊んだ金は? 女と遊ぶ金は? 全部我が主の懐からだろう』
ここぞとばかりに閻魔刀はダンテに対する日頃の不満をぶちまける。
なんせ事務所の名義は主、家計を切り盛りし炊事掃除洗濯子どもの世話まで、殆ど主が行っているのだ。
対して主の弟は人が稼いだ金で飲み食い遊びまわり、時には借金までこさえてくる。
そもそもネロとて、実際は主の子どもではなくダンテが何処の馬の骨とも知らぬ女に勝手に種をばら撒いて拵えてきたものだ。
主が己が子として育てると決めたことに口出しすることはないが、殆ど面倒を見ているのは主なのだ。
作るだけ作って後は放ったらかし、少々勝手すぎやしないか。
様々なことに関して、主第一主義の閻魔刀は常々腹に据えかねていたのだ。
いつもは主に宥められ何も言わなかったが、この機会に言いたいことを全部言ってやろうと閻魔刀は一切の遠慮容赦なく思念を飛ばした。
『金を使うことしかできん能なしが。貴様のような男をヒモというのだ』
いや、ヒモの方がまだましか。
就職活動や家事手伝いぐらいはするのだから。
『ヒモにも失礼か。貴様はクズだ、ゴミ虫だ、ウジ以下だ』
これは、やばい。
逃げようとするダンテの前の壁に、高速で飛んできた閻魔刀が突き刺さる。
『……逃げられると、思っているのか?』
仕事を終え事務所に帰ってきた一人と一匹がまず見たものは、刀の前で正座をし説教されている成人男性という奇妙な図だった。
少しの間、閻魔刀を装備した姉を見る度に怯えるダンテが目撃されたらしい。
3.しっぽは口ほどに
もふもふもふもふ
彼女は黙って触り続ける。
もふもふもふもふ
アイスブルーの瞳は恐ろしいまでに真剣に、獲物を捉えている。
右手には成犬用のブラシ、柄の部分は樫の木、ブラシの部分は馬毛でできたドイツ製の高級品だ。
膝の上に獲物を乗せて、彼女は右手を構える。
「さぁ、ブラッシングの時間だ」
左手で獲物に触れながら、彼女は優しくブラシを当てた。
上から下へ、流れる様に毛を梳る。
皮膚に強く押し当てるようなことはしない。
ブラシの先が軽く毛の奥にある敏感な皮膚を撫でるくらいの強さで、彼女はブラシを動かす。
膝の上に寝そべる黒い獣は、絶妙な力加減に恍惚のため息を吐いた。
ふふっと笑う声が頭上から落ちてくる。
「気持ちいいか?」
楽しそうな声に顔を上げると、細くしなやかな指先が喉をくすぐる。
むずがゆさと心地よさに目を細めると、優しく頭を撫でられた。
時折ぴんっと立っている耳のまわりを指で掻かれて、くすぐったさに体を震わせる。
「ああ、まだ動いたら駄目だぞ」
左手で体を引き寄せられ、体勢を整える。
「お前は可愛いな、シャドウ」
敵であるはずの悪魔を可愛い呼ばわりした上にブラッシングまでしている奇妙な悪魔狩人に、ムンドゥスの配下であるはずのシャドウはぱたりと尻尾を揺らした。
忠誠心よりも獣の本能が勝つのは、獣型悪魔の性だろうか。
温かい手の誘惑には勝てそうにない。
触り方がことごとくポイントを押さえているのだ。
逆らえるはずがない。
シャドウはごろりと腹を見せて降参の意を示した。
それでいいのか悪魔。
彼女は膝の上で転がる大柄な体もなんのその、嬉しそうにふかふかの腹を撫でながらブラッシングを続ける。
それでいいのか悪魔狩人。
「あねきー、へるぷみー」
「頑張れ」
マリオネットに囲まれているダンテのやる気のない言葉も平坦な感情の籠らない声で斬り捨てて、マレット島の城の中、適当なソファの上で彼女はシャドウの毛皮を満喫したのであった。
動物や獣型悪魔に遭遇した時の為に、彼女がブラシと各種動物のおやつを持ち歩いていることは知人の間で結構有名な話である。
4.躾不足です
ここにパンドラという魔具がある。
一見、四隅に銀の装飾が施され中央に悪魔の顔があしらわれた黒いスーツケースである。
その実666もの変形バリエーションを誇り、破壊をまき散らす魔界兵器なのだ。
ダンテはパンドラを前に、一人悩んでいた。
パンドラは所有者の記憶に影響され、その形を変える。
ならばと、ダンテは考えていた。
それならばパンドラを使って、夢のあんなプレイやこんなプレイができるのではないだろうか!
上手くいけば今後の夜が充実したものになるかもしれない、と。
珍しく真面目に考えていると思ったら碌でもないことだ。
「やべぇ、俺天才かも……」
彼の姉がこの場にいたならば、天災の間違いだこの馬鹿がと、すっぱりざっくり言い切ってくれただろうが、彼女は現在レディの家に遊びに行っている。
ダンテがそれをにこやかに見送ったのは十分程前のことだ。
往復だけでも三十分はかかるため、まだ彼女が帰宅するのは先のことだ。
考える時間だけはたっぷりある。
「まずは……記憶、か」
つまりは具現化したいものを想像できればいいのだろうと、ダンテは用意していた本を引っ張り出した。
表紙からしていかがわしい肌色が氾濫する、いわゆるポルノ雑誌である。
お堅いように見えて意外にも理解のある姉は、ネロの前でなければと、ダンテが何を読んでいても口を出さない。
まあ、大人のおもちゃを持ち込んだ時には、鬼神の笑みで握りつぶされたのだが。
その時の怒り様を思い出して少し青ざめながらも、今回はそれもないだろうとダンテはにやりと笑む。
流石の半人半魔でも魔具を握りつぶすことはできないだろう。
「どれがいいかな〜っと」
ふんふんと鼻歌交じりにページを捲っていく。
最初にダンテの目についたのは、黒革に平らな鋲をうった手枷だった。
手首を拘束する革製の輪と輪の間には、30cm程の長さの銀色の鎖が波打っていた。
「ま、手始めにこれでいってみっか」
ページを押さえ付けて開きながら、パンドラの留め金に手をかける。
「It's show time!」
蓋の角を掴んで上に持ち上げると、光が溢れだしてくる。
期待に瞳を輝かせるダンテではあったが、冷静に考えてほしい。
魔具とは基本的に何かを攻撃するために、『使用者が』装備するものである。
そして手枷とは拘束具、つまり誰かに装着させることで使用する。
結果としてパンドラはその役目を忠実に果たし、帰って来た息子と姉にその姿を見られ一週間ほど二人が余所余所しくなるという災厄をダンテに振り撒いた。
5.愛しくってしょうがない
「ああトリッシュ、相変わらず唐突だな。帰って来るなら連絡してくれよ」
――ムカつく
「レディったら……、今度暇な時おいで。簡単な料理でよければ教えるから」
――ムカつく
「ベオ、ケル、シャドウ。ご飯だよ」
――ムカつく
「いい子だなネロは。ふふっ、今日のおやつは少しだけ豪勢にしてやろう」
――ムカつくムカつくムカツクムカつく
「ダンテ、どうした? 具合でも悪いのか?」
心配げに覗きこんでくる顔に、苛立ちがみるみる萎んでゆくのがわかる。
細い腕を掴んでぐいっと引き寄せる。
何も言わずに抱き寄せられるのは姉なりの優しさなのだとダンテは知っていた。
多分、見抜かれている。
具合が悪いのではないことも、機嫌が悪いことも、全部、下らない嫉妬だということも。
「お前は馬鹿だなぁ」
囁くような笑い声が耳を通じて胸の中に沁み渡る。
心地よい、まるで羊水に浸るような温かい安堵が体に広がっていく。
自然、気づかぬ内に力が入っていたらしい腕が緩んで、姉に寄りかかるような形となる。
跳ねのけるでもなく、柔らかい胸に抱かれる。
「大丈夫だよ、ダンテ」
姉の言葉はまるで魔法のように、欲しいものを与えてくれる。
「愛しているよ」
一定のリズムで背中を叩かれる。
子どもじゃないと言ってやりたくても、縋ってしまった時点で何も言えないのだ。
姉が与えるものはいつだって優しく温かだ。
ダンテはいつだってそれが欲しくてたまらない。
言葉も視線も感情も、全部が自分のものであってほしい、自分の為に、自分に向けられていてほしい。
叶わないとは知っていても、時々抑えきれなくなる。
そんな時、汚い感情ごと自分を受け入れてくれるのもまた姉だった。
「あ゙ー、もーマジで、何なんだよー」
こんな相手を手放せるはずがない。
くすくすと笑っている姉に頭をすりよせて、ダンテはようやく深く呼吸ができたような気がした。
スタイリッシュ座談会 〜1,3,4ダンテ集合〜
「よっす、未来の俺」
「よう、過去の俺」
「「そして髭」」
和やかに挨拶を交わしていた二人は、部屋にいた三人目を同時に見る。
その目はじとりと胡乱気なものだった。
だがもう一人は対して気にした様子もなく、頭の後ろで手を組んで椅子に座っている。
「ひでーな、坊やたちは」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべる髭に、髭よりも若い二人のダンテは口をへの字にした。
二人もそれぞれ椅子に座り、三人で一つのテーブルを囲む。
バーテンに向かっての注文はやはり同一人物といったところか。
「「「ストロベリーサンデー」」」
意図したわけでもないのに声が揃う。
若い二人は視線を合わせ、嫌そうに髭を見た。
髭はわざとらしく肩を上下させる。
「仕方ねぇだろ、『同じ』なんだから好みも似るさ」
食事、嗜好品、女の好み、全てが似ている。
違うのは年齢と、歩んできた道だけだ。
「俺、髭とはちげーもん。ネロと姉貴に酷いことしねーし」
「右に同じく」
子育て真っ最中の二人が不満の声を上げる。
ずっと姉と共に生きている一番若いダンテ、失ったものは多かれどようやく幸せを手にした真ん中のダンテ。
そして、全てを壊しても姉を手に入れんとする年長のダンテ。
互いに失ったモノも得たモノも異なれば、意見が合うはずもない。
年長者のダンテは背もたれに体重を預け、首を傾げる。
「あの坊やが俺のガキだとはわかっているんだがな」
どうにも実感が沸かんと、呟く。
産んだわけでも育てたわけでもないのだから当然だ。
少なくとも二人のダンテはネロが赤ん坊の時からその成長を見つめている。
自分だけでは生きられない弱々しい魂をその手に抱え、守ってきたのだ。
特に真ん中のダンテは姉もなく一人で子育てを行ってきたのだから、ネロに対する父性愛は他の二人より抜きん出ている。
「最低だな」
「ああ、最低だ」
その一切反省を見せない愉快犯的な態度に、運ばれてきたストロベリーサンデーを食べていても表情は鋭い。
カチャカチャと硝子の器と銀のスプーンがぶつかる音がする。
「まあな、最低と言われても仕方ないことぐらいは自覚してるさ」
常識と良識の塊のような姉に育てられてきたのはこのダンテとて同じなのだ。
違いなど、道を違えてしまったかどうかだけで。
「だがな、お前さんには俺の気持ちは絶対にわからんよ」
年長のダンテはスプーンで一番若いダンテを指す。
何も失わず、しかしその手には全てが握られている。
愛も、時間も、優しい世界も、何もかもが彼を包んでいた。
理想の未来を約束された青年。
その手に何も残らず、奪うことを決めた身としては不満の一つも言いたくなったのだろう。
それが僻みであるとわかっていても。
少し前までは似たような立場であった真ん中のダンテも、複雑な面持ちでその言葉を聞く。
年長のダンテの考えもわからないでもないのだ。
姉に託されたネロがいなければ、彼もどうなっていたかわからないのだから。
「そりゃそーだ」
若いダンテは驚くほどあっさりとそれを事実としてを認めた。
ストロベリーサンデーの器が持ち上がり、底に溜まっていたクリームとストロベリーソースの混合物がダンテの口の中に流れ込んでいく。
ことんと器が置かれ、口の周りに付いたクリームを親指の腹で拭って、彼はにっと笑った。
「ようはタイミングと察し、ついで理性の問題だろ」
俺がっついてねーもんと、いっそ爽やかな笑みで彼は言う。
言葉もなく固まっている二人をよそに、若いダンテはさっさと立ち上がり、バーを後にした。
「……やられた」
「ああ、クソッ! あのガキ……」
正気に戻った二人は同時にため息をつく。
姉との間に実子を設け、それを理由に逃げられた二人には痛い言葉だった。
そして何よりも、痛いのは。
「あいつ、自分のストロベリーサンデー、払ってねぇ……!」
趣味嗜好好みと同様、万年金欠乏症なのはやはりどの次元のダンテでも共通したことだった。