グリルパルツァー「接吻」より

手の上なら尊敬のキス


眠る人の細い指先を見る。
トリッシュにとって、この女は、スパーダの子である双子は複雑な感情をもたらす存在だ。
初めは敵だった。
彼女らの母親に模した姿に作られ、二人を殺す為だけに生かされた。
作られた悪魔であるトリッシュにとっては創造主であるムンドゥスは絶対であったし、二人を殺した後に消されようとも仕方のないことだった。
だが、二人はこの手を取ってくれた。
細くしなやかな手で、強く骨ばった手で、悪魔でも光の道を歩めるのだと指し示してくれた。
一時は敵として攻撃をし、殺そうとさえした相手を、救おうとしたのだ。
度し難い愚か者だと思うと同時に、その愚かさを愛しく感じた。
トリッシュは珍しくソファで午睡にまどろむ女の手を取る。
強い手だ。
悪魔を屠り血に濡れながら、誰かを大切にできる手。
心の端に芽生えた羨ましいという感情にトリッシュは口を歪める。
羨んだ対象は一心に愛情を向けられる家族か、大切なものを包める手の持ち主にか。
「どっちも、かしらね」
人間の世界に馴染んだ今でも悪魔であることは変えられない。
けれども、それでいいと受け入れてくれる人たちがいる。
ルージュで染まった唇を白い手に落とす。
幸せを作るその手が、私は羨ましくて愛おしい。



額の上なら友情のキス


鉛色の空から地面に叩きつける様に滴が降り注ぐ。
神の涙だなんて初めに表現したのは誰だろう、所詮は自然現象に過ぎないというのに。
「いやだわ、雨なんて」
憂鬱そうに紅茶を飲むレディの正面にクッキーの盛られた皿が置かれる。
「そうだな」
きしりとソファが軋んで隣が沈む。
漸く口をつけられた紅茶は少し冷めてしまっている。
僅かに湯気の立つそれに何も入れず、この事務所の所有者たる女はドアの硝子越しに雨に打たれる外を見た。
如何にも肌寒そうな格好をしているレディには堪えるだろう。
此処に来るまでもバイクを走らせたせいでびしょ濡れだった。
ダンテがいないから丁度いいとシャワーとシャツを借りて、今はタオルを頭に乗せたまま紅茶で暖まっている。
悪魔狩りは体が資本だ、雨に当たって風邪を引いてなどいては商売にならない。
そも湿気は火薬を使うレディの敵だ、雨を好きになれる筈がない。
「だが、」
額に触れる温かくて柔らかい感触。
宥めるようなキスは母を思い起こさせ一瞬レディを郷愁に駆らせたが、目の前にいる相手を思い出して羞恥に顔を染める。
「お茶をするには持ってこいだと思わないか?」
「……っ、そういうのは息子かあの馬鹿にやりなさい!」
顔を赤くして怒鳴る友人のために、彼女はもう一杯紅茶を注いだ。



頬の上なら満足感のキス


「ごっそーさん」
「はい、お粗末さまでした」
食事が終わると空の食器を抱え、細い背中がキッチンに吸い込まれていく。
水音と食器のぶつかる音、次いで香ばしい匂いが漂い始める。
戻ってきた姉の手にはマグカップが二つ握られていた。
赤と青のカップの中に、それぞれ液体が湛えられている。
青の方は底の見えない黒、赤の方は茶色に濁った白い液体がなみなみと入っている。
青いカップは姉の物で、赤いカップはダンテの物だ。
コーヒー一つ淹れるにしても、姉はブラックでダンテは砂糖のたっぷり入ったカフェオレと、大幅に好みが異なる。
「どうも」
礼と共にカップを口に運べば、仄かな苦みに引き立てられた程良い甘さがダンテの味覚を刺激する。
自分で砂糖を入れてもこうはならない、彼女だけがダンテ用のコーヒーを淹れられるのだ。
コーヒーを飲む彼女と一緒の時間が過ごしたくて我儘を言った。
けれど甘党の舌にブラックコーヒーが合う筈もなく、砂糖とミルクをたっぷり入れたそれは既にカフェオレだった。
何度も何度も改良に改良を重ねて、ダンテの味覚に合う物がテーブルに乗るようになったのはそう新しいことではない。
ダンテの体調に合わせて砂糖の量が変えられているのに気付いたのは最近だったけれど。
「美味いか?」
いつだってアンタの作った物が美味くない筈がない。
言葉にするのはもったいない気がして、問いかける優しい姉の頬に唇を降らせた。



唇の上なら愛情のキス


ちう
可愛らしい音を立てて唇が重なる。
きょとんと目を見開く母に全身で抱きついて、ネロは華のように笑った。
「母さん、大好き!」
「私も大好きだよ」
脇に手を入れて持ち上げ、小さな体を膝の上に乗せる。
幼い息子の愛らしい唇にちょこんとキスを返した。
ふふふと、額を合わせて笑い合う。
「もっとー!」
「もっとなのか?」
顔の至る所に戯れに唇を落とす母に、負けじとネロもキスをする。
「……俺は無視なわけね」
その隣で頬杖をついて見ていた父親が一人、寂しげに呟いたが返事はない。
はしゃぐ息子と、そんな息子が可愛くて仕方がないらしい姉に混ざるべく、ダンテはネロに手を伸ばした。
「うりゃ」
ネロの口にキスを一つ、息子が驚いている隙をついて姉とも唇を重ねる。
舌で唇の隙間を撫ぜれば返ってくるのは鋭い視線。
幼い息子の前で教育に悪いと言いたいのだろう。
ダンテは素直に唇を離して、標的を嫌そうな顔をする可愛くて可愛くない息子へと切り替えた。



閉じた目の上なら憧憬のキス


目蓋の上にキスを一つ。
閉ざされていた目蓋を銀の睫毛が押し上げる。
現れたアクアマリンブルーは虚ろで、未だ眠気を振り払いきれていないのが見て取れる。
「眠いか?」
「ん」
睡魔と戦いながら舌っ足らずに答える姉が、ダンテは愛おしくて仕方がない。
丸い頭の形をなぞるように撫でれば、心地よさそうに目を閉じた。
厚い胸板に擦り寄る姿は丸っきり子猫のようだ。
普段は見えない姉の稚さを感じさせる姿にダンテは顔を崩した。
「もう少し寝てていいぜ、夜明けにはまだ早い」
彼女は、夜に眠れるのだ。
悪魔の血の所為かダンテは時々夜に全く眠れないことがある。
それが今夜という訳なのだろう。
等しく悪魔の血を継ぎながら自分より人間らしい姉を羨ましいと思わないでもない。
だが彼女よりも悪魔らしい自分は、きっと家族を守るためにそうなったのだ。
夜は怖くない、眠れなくても彼女の傍にはいられるから。
「Sweet dreams, baby」
寝息を立てて夢の世界に旅立つ姉の目にもう一度キスを。
夢の中でも手を共に歩んでいられるように。



掌の上なら懇願のキス


生温かい舌が柔らかい掌の上を這う。
冷たく濡れた鼻を押し付けられて、彼女は笑った。
「どうした、ベオ」
楽しげな主の顔を目だけで見上げながら、ベオウルフは言葉なく掌に鼻を寄せる。
長い舌で掌を擽ると小さく笑う声が聞こえる。
ぺろぺろとただの犬のように手を舐めるベオウルフの頭を、もう一方の手で撫でた。
「閻魔刀ばっかりだから拗ねた?」
ぴくりと、主の言葉にベオウルフは身を固くした。
永く生きている悪魔の、子どものように素直な反応に愛しさを感じる。
「最近はずっと留守番ばかりさせていたな」
よしよしと頭を撫でられて、ベオウルフは窺うように顔を上げる。
半分人間の主の手は温かくて優しい。
一度はその手で九割九分殺しにされたベオウルフだが、主と認めた彼女の手は好きだった。
決して口には出さないけれども、きっと彼女は知っている。
「次の仕事は閻魔刀に留守を頼んで、お前を連れて行こう」
それでいいかと問われて、ベオウルフは主の手に顔を擦りつけた。
主のお気に召すままに。
でも、たまには構って。
臣下の心情を見透かすように、短い尻尾が振れるのを見ながら彼女はくつくつと笑った。



腕と首なら欲望のキス


じゅっ
音を立てて肌を吸われる感触に彼女は眉を顰めた。
ちくりとした痛み、普通だったら見事な赤い花が咲くだろう。
だが刺し傷ですら瞬きの内に消える半魔の体は鬱血などモノともしない。
吸い上げられた跡を確認しようと視線を向けた先には、滑らかなシミ一つない白い肌が広がっていた。
「やっぱつかねーな」
つまんねーと言いながら、ダンテは無駄な努力を繰り返す。
首筋の頸動脈の上を強く吸い上げたっぷりと唾液をまぶす。
ぞくりとしないわけではないが、それ以上に強く不快の感情を顕わにしながら彼女はダンテを睨んだ。
「もういい加減にしろ」
懲りずに食いついてくる頭を手で押して距離を取ろうとする。
その手を取ってダンテは白い肌に吸いついた。
きつく吸い上げ、おもむろに口を開き、柔い肌を食む。
決して優しいものではない。
しかしぶつりと薄い皮膚を破って血をにじませたそれさえも、ダンテが口を離した瞬間に消え失せる。
零れた血を舐めとれば、何事もなかったかのように白い肌が姿を現した。
「アンタが全部俺のものだって、ちゃんと印がつけばいいのに」
拗ねた子どものような顔でダンテは再び細い首に齧りつく。
さてこの我儘な弟をどうあやそうか、彼女は押し倒されながら考えるのだった。



さてそのほかは、みな狂気の沙汰