淫魔の誘惑
事務所はその日、甘い香りで満たされていた。
キッチンに立つの手によってお菓子が生産されてゆく。
紅茶とココアのクッキーにチョコチップ入りのマフィン、甘さ控えめのパンプキンパイは生クリームを添えて。
マドレーヌ、フィナンシェ、プディングにムース。
ここぞとばかりに並べたてられたお菓子がテーブルに並ぶ。
輝かしい色艶と香りが食欲をそそった。
「いや、わかってたけどな……」
目の前に迫るお菓子の数々に、黒いマントを被りヘル・プライドに扮したダンテはソファの上で膝を抱えていた。
朝起きて、一階に降りてきた時には既にこうだった。
ハロウィンお決まりの台詞を言う隙など一分たりともなかった。
悪戯という名目であんなことやこんなことをしてやろうという目論見は起床十分で砕かれた。
無駄に手を込ませて作った仮装も、こうなってしまっては最早滑稽なだけだ。
「どうした、ダンテ。甘いものは好きだろう?」
しょんぼりと落ち込んでいる風なダンテに、キッチンで新たにお菓子を作っていたが声をかけてくる。
背中にはおんぶ紐で括ったネロを背負っていた。
手に持ったボールと泡だて器にはクリームチーズ。
今度はチーズケーキを作るつもりらしい。
次々と生産される美味しそうなお菓子が、今日ばかりは恨めしい。
反応がないダンテに首を傾げたが、そのままはお菓子作りにまた没頭した。
ダンテが顔を上げてネロを見ると、こちらもまたしっかりと仮装している。
黒っぽい灰色のベビー服の背に白い羽がついている。
ダンテの予想が外れてなければ、その服はお手製ベオウルフの仮装だろう。
最初から悪戯しようなどという目論見は外れていたのだ。
姉は今年に限ってハロウィンを覚えていた。
去年までは忙しさにかまけてすっかり忘れていたというのに。
恋人になってから初めて迎えるハロウィンにこの仕打ち。
ダンテは涙が出そうになった。
だがの服を見て、ダンテは気を取り直す。
白いシャツにレザーのパンツとブーツ、その上に黒いギャルソンエプロンを着けた格好は、休日によく見かける姿だった。
つまり、は仮装をしていない。
付け込むチャンスはまだあった。
ダンテはにやりと口の端を上げる。
「」
「なんだ?」
キッチンでくるくると動きまわる背に声を掛けた。
オーブンを見て振り向かないままに、の声だけが返って来る。
何でもない風を装ってまずは軽いジャブ程度の質問から。
「仮装しないのか?」
「面倒」
取り付く島もないほどあっさりすっぱりと斬り捨てられた。
様子見のジャブを渾身のアッパーカットで返された気分だ。
仮装は子どもがするものだろう。
付け足された正論すぎる正論に、仮装していた子持ちの十九歳は押し黙る。
めげずに仮装させようと考えるが、どれもこれもの前ではあっさり却下されそうだ。
むむっとこういう時だけ無駄に頭を働かせているダンテの前に、何品目か数えるのも億劫なお菓子が新しく並んだ。
立ち並ぶ甘い香りにダンテはため息を吐き出した。
「お菓子よりも姉貴が食べたい」
「死ね」
いっそ言ってみようと無謀にも程があるダンテの欲望に忠実すぎるストレートな発言に、はっきりとした殺意が返って来る。
あれ、恋人じゃなかったっけ?
少しばかり愛情を疑いたくなる今日この頃。
「いーじゃねーかよー。仮装しよーぜー」
一緒にイベントを楽しみたい。
あわよくばコスチュームプレイがしたい。
主に後者の意見がダンテの中では強いわけだが、前者も嘘ではない。
家族で楽しく過ごしたいという気持ちだって、ダンテの中にはある。
邪まな感情は精々95%ぐらいだ。
十分多い。
根が生真面目というか恥ずかしがり屋なにはイベントごとでもないとコスプレなどさせてもらえないのだから仕方がない。
あんなことやこんなことは、興が乗ればしたりさせたりしてくれるのに。
当のが聞いたら閻魔刀で粉微塵に斬られそうなことを考える。
「……そもそも衣装がないだろう」
お菓子作りも一段落したのか、はテーブルを挟んでダンテの向かいに腰掛ける。
おんぶ紐を外してネロを抱える姿は立派な母親だ。
「あるぜ!」
意外にもこのまま押し切れそうな姉の様子にダンテは張り切る。
この日の為だけに、命とも言える酒とストロベリーサンデーを控え、真面目に仕事をこなしていた男に抜かりはなかった。
どこまでも欲望に忠実な男である。
どたどたと慌ただしい足音を立てて自室に向かったかと思うと、すぐさまとんぼ返りしてくる。
誰も着るとは言ってないのになぁと、は大量生産したクッキーを摘みながらダンテの動向を窺っていた。
「どっちがいい!?」
帰ってきたダンテが握っていたのは二着の服だった。
そのどちらも露出度が高く、の記憶が確かならば実在する悪魔と魔物が着ていた物に酷似している。
片方は何時ぞやダンテが魔具として下した魔女のモノである。
衣装とよりかは布切れと称した方が正しいかもしれない。
まだ午前中であるにも関わらず、暗に上半身裸を姉に勧めてくる弟というのは如何なものだろう。
もう一つはタイツにヒール、レオタードの様なものに加えて蝙蝠の羽に似た物が大小二つ。
羽は背と頭部に着けるらしい。
ダンテが以前遭遇したという、違う国にいる夢魔の衣装ではないだろうか。
は目を伏せ、ふっと笑った。
抱いていたネロをそっとソファに降ろした。
左手にいつの間にか閻魔刀が収まっているのを見て、ダンテは逃げ出そうとする。
その進行方向に青い魔力が迸った。
言うまでもなく、幻影剣だろう。
にっこりと笑みながらは閻魔刀の鞘を抜く。
「Rest in peace.(安らかに眠れ)」
魔人化した姉との命懸けの鬼ごっこが、今ここに幕を切った。