魔女は笑わない
「Hello, darling. Trick or Treat?」
派手な音を立てて窓硝子が割れた。
室内の照明を反射して煌めきながら自分に向かってくる硝子の破片を、は冷静に最低限の動作で避ける。
突然の訪問者に恐れることも驚くこともなく、彼女は薄氷色の瞳を眇めた。
「昨今の吸血鬼は」
侵入者から視線を離さず、上から下まで観察しながらは言葉を選ぶ。
後ろに撫でつけた銀色の髪、珍しく黒を基調とした一昔前の貴族王侯の着るようなカッチリとした服を纏い、肩から膝下まである長い立襟のマントを羽織った姿はまさしく夜の貴族に相応しいものだ。
唇から覗く鋭い犬歯に何人の女性の首筋が触れたものかと邪推したくなる。
の言葉はその格好を揶揄したものだ。
「随分と無作法になったものだ」
何をしに来たと問わない代わり、割れた硝子について静かに咎めた。
それを優しさと言うには余りにも冷たい声音に、しかしダンテは怯むことなどなかった。
むしろ聞いていなかったのではと思わせるような呑気な顔で、姉の姿を舐める様に見ている。
獣の目は愉快気な色を孕んで笑んでいた。
も、この男にはどうせ嫌味など通じないと思っている節があるので、あからさまな視線を無視し、それまで行っていた食器の片づけを続行する。
「そう言うアンタは魔女か」
似合ってるなと笑う男の視線の先では、黒いイブニングドレスに身を包んだが食器を棚に納めている。
胸元は深くカットされ、白く豊かな谷間を惜しげもなく晒している。
爪先に掛かるほど長い裾は華やかで大人びた黒のレースで縁取られている。
テーブル前に並ぶ椅子の一つには先の折れ曲がった黒い三角帽が、同色のショールと共に所在なさげに鎮座していた。
テーブルの上には四分の一程が切り取られ、橙色の中身も露わなパイが置かれている。
万聖節の前夜祭である今日の主役を大量に投入したらしい。
ぎっしりと中身が詰まっているのが見て取れる。
「菓子が欲しければ勝手に食べて帰れ」
ひゅんと空気を斬って銀が飛来する。
それを難なく受け止めた手の中にはフォークがあった。
キッチンから実の弟に向かって当たったら人を殺せる速度でフォークを投げたは、冷然と硝子のない窓に寄りかかるダンテを見据える。
「坊やはどうした?」
いつもならば子犬のように吠えてくる青年を思い浮かべながら、ダンテは首を傾げる。
まだティーンエイジャーの青年をからかうのも中々楽しいと言ったならば姉に怒られるだろうか。
飄々と部屋の中を進み、テーブルの上のパイにそのままフォークを立てた。
ざくりと、パイの層が切り取られ口に運ばれる。
はダンテの無作法を咎めることもなく、見張る様にキッチンの入り口からじっと見ているだけだった。
「美味いな」
さくさくの生地にたっぷりとした素朴な甘さのカボチャが口の中で広がる。
いささかダンテには甘みが足りないが、そこまで甘い物を食べないには丁度いいくらいか。
おそらくネロも、外見はダンテ寄りだが、食事の嗜好は似なのだろう。
「ネロが帰って来る前に消えろ」
壁に掛かっている時計を見上げて、パイを食べ進めるダンテには冷たく告げる。
ネロが帰って来ればダンテと争いになるのは目に見えている。
初めにこの男を招いてしまったことを、ネロは未だに悔いているのだ。
しかしその実力差は明らかで、ネロがダンテに勝てる日が訪れるのは当分先のことだろう。
可愛い息子が傷つけられるのを見たい親がいるはずもなく、は二人が顔を合わせることを良しとしていなかった。
「なんだ、帰って来るのか」
残念そうに肩をすくめるダンテに冷たい視線が降り注ぐ。
ネロが帰って来ないとしたらどうするつもりだったのか。
口に出して問わないのは、予想がついているからと、余計なことを聞いて藪の中の蛇を突きたくないからだ。
絶対零度の視線にダンテはにやりと笑う。
「そんな熱烈に見られると穴が開いちゃうぜ」
「ここに顔を出せなくなる程度のものが開いてくれればいいのだがな」
じゃれるような掛け合いも、瞳だけは至って冷めている。
一方は欲望に、一方は警戒にそれぞれ青い瞳をギラつかせている。
パイがざくりとフォークで切られた。
もう殆ど残っていないパイをダンテは殊更ゆっくり口の中に納める。
唇の端に付いたパイの欠片を親指で拭い、口に寄せればもう完食だ。
ダンテに向かって、は顎で窓を指す。
食べ終わったなら早く帰れという意味なのは言われずとも伝わる。
だがダンテはわかっていて、を焦らす様に椅子の上で伸びをする。
わざとらしい動作には眉を顰めた。
「あの坊やもなぁ、俺が父親だってわかっててあの態度だもんな」
ホントにちゃんとわかってんのかねぇと、ダンテの言葉には警戒を強める。
何を言いたいのかわからない時が一番危険だ。
相手の考えが読めなければ、行動も読めない。
格下相手ならばどうでもよいが、ダンテとの実力は拮抗、下手すればダンテの方が勝っている。
戦闘は最終手段、基本は逃走だとは手元に閻魔刀を呼び出して備える。
「……何が言いたい」
「簡単さ。あの坊やも純情っぽいからと思って」
ダンテが立ち上がると同時には後進する。
その勢いのまま鞘から閻魔刀を抜き去り、踏み込んできた男に切っ先を向けた。
が警戒していたように、ダンテも当然のことながら姉の行動をある程度予想している。
刀を向けられるのも今更だ。
輝く白銀に臆するなんて可愛げがあるはずもなく、ダンテは更に足を踏み込ませる。
流石にそのまま自分の方へ向かってくるとは思わなかったのか、瞠目したは、しかし即座に閻魔刀を振るう。
鋭く一閃、ダンテの胸辺りを薙ごうとする白刃をしゃがんで避け、さらに上からの軌道を読んで横から刃を弾く。
そう簡単に武器を手放すわけもなく、の手から刀を離すことは出来ない。
が、一瞬の隙を生み出すには十分だ。
十分すぎるその隙にダンテは更に前へと踏み込む。
下がる時間すら与えず、そのまま唇を奪った。
触れあった唇に、にやりと笑む。
しかしそのままダンテは後ろに下がった。
その後を無数の幻影剣が追い、閻魔刀の剣圧が飛ぶ。
「俺とあんたがこういうことをして坊やが産まれたってこと、実感してないんじゃないかってな」
気障ったらしい動作で襲い来る攻撃を避けながら吸血鬼は笑った。
剣を振るう魔女は笑わなかった。