故に最哀の
地上を見下ろしていた目が、ふと何かに気づいたように持ちあがった。
「余計なものが紛れ込んだな」
傍で本を捲っていた男の手が止まる。
風に煽られページが変わっていくが、何度も読み、ほぼ内容を暗記している男にとってはどうでもいいことだった。
その本の価値は著者にある。
伝説の魔剣士スパーダによる、直筆の本。
文字ひとつひとつから魔力が読み取れるような錯覚さえ覚える。
「そうかね?」
「人間――女か」
丁寧な手つきで男は本を閉じた。
「招かれざる客にはお帰り頂こうか」
男は立ち上がり、塔の端に立つその人へと歩み寄る。
「君もそれが望みだろう」
刀の間合いに入るような愚行はしない。
男と彼の人は仲間ではなく、あくまで協力関係にあるだけなのだ。
いつ斬られてもおかしくはないことを男は熟知していた。
「その女とは少々関わりもあるしな」
その言葉に、秀麗な顔が男の方を向く。
唇の端が弧を描く。
「いい、私が相手をする」
貴様は大人しくそこにいろと、刀を携えた青の麗人は踵を返した。
突然の申し出に驚くも、男は理解しがたいと言わんばかりにゆったりと頭を振って、先ほどまで彼の人がいた場所に立ち、遠く人の住む地上を見下ろす。
「嵐が来そうだ――」
それが何を指しての言葉なのか、聞く者もいなければ語る者もない。
本来は何らかの意味を持ち塔を飾っていた筈の崩れたオブジェに腰掛け、鼻に一筋の傷を持ったヘテロクロミアの少女は銃の弾倉を換えていた。
遊底を引いて銃身に初弾を装填する。
唇を引き結び油断なく銃を構える姿からは堅固な意志が窺われる。
立ち上がり進もうとする少女の背後に、彼の人は立っていた。
「こんばんは、お嬢さん」
穏やかながら芯の通った女の声だった。
咄嗟に少女は右手の銃を背後に向けて構える。
「このような所に単身で乗り込んでくるとは、中々に勇ましい」
向けられた銃口に怯むことなく、彼女は笑った。
月の光を弾いて後ろに撫でつけられた銀の髪が輝く。
脛まである重たげな青いロングコートの裾が風に翻った。
シャツとスパッツの他は全て火薬類という軽装備な少女とは反対に、首元にはスカーフ、そこから腰まで硬そうな素材のインナーに覆われ、すらりと伸びた脚は黒いパンツと膝まである茶色のピンヒールブーツに包まれている。
茶色の革手袋は傍らにある彼女の得物であろう刀の使い易さを考慮したものなのか、指の部分は露出していた。
「あんたは……」
ひどく目立つ女だった。
道を通れば男女問わず十人中十人が振りかえるような、美しい女だ。
それ故、少女には見覚えがないと断言できた。
「君とアーカムの関係は知らないが、できればお引き取り願いたい。奴はまだ、私の計画に必要なんだ」
今はまだ殺されては困ると、女は笑った。
まるで自分の目的を知られているような不快感に、少女は視線を強め、引き金に掛けた指を震わせた。
「そう敵意を向けないでくれ。私は無関係な人間を殺す趣味はない」
「黙れ!」
父、いや、かつて父と呼んだ男の仲間と思わしき女の言葉に、少女は声を荒らげた。
少女の脳裏に浮かんだのはアーカムに殺された母の姿か、この塔の外を這い回っていた悪魔の姿か。
「『無関係な人間を殺す趣味はない』ですって!? なら外のアレはなんなのよ! 自分の手を汚さなければ関係ないとでも言うの!?」
「あの悪魔たちはこの塔に人間を侵入させないようにするためだ。事実、あいつらは塔に向かおうとする人間以外には無害だ」
「だからって! 悪魔を野放しにすることが許されるわけがない!」
女は痛いところを突かれたというように苦い顔をした。
「この塔が役目を果たせば、悪魔共は消える。……それまで住人には不安な思いをさせるだろうが」
「この塔の役目?」
鸚鵡返しに問う少女の目をアイスブルーの瞳が真っ直ぐに見据える。
冷たい色なのにどこか温かみがあるように見えて、少女は戸惑う。
何故か亡き母を思わせる瞳だった。
「この塔は私が魔界へ行く為の門だ。私が魔界へと降り立てば崩れ落ちる」
女の言葉は少女を狼狽させるのに十分な威力を持っていた。
腕が降りて、銃口が地に向けられる。
「ちょっと待って! ……悪魔の力を得るためじゃ、ないの?」
「私はな。だがアーカムは違う。あの男は伝説の魔剣士スパーダの力を我が物にしようとしている」
少女はぎりッと強く歯噛みした。
あの男はどこまで愚かなのか!
強まる決意を胸に、少女は改めて目の前の女に銃口を向ける。
「あんたは……あの男の味方?」
答え次第では此処で撃ち殺すことも辞さないつもりだった。
悪魔なのか人間なのか、そんなことはどうでもいい。
ただあの男に賛同すると言うつもりなら、少女は迷いなく引き金を引くだろう。
だが鋭い美貌はきょとんとした、少し間抜けで馴染みやすい表情になる。
「味方? そんなわけがない。あの男は自分の妻を手に掛けた。そんな男の味方を何故私がするというの?」
あり得ないと、その顔は語っていたが、少女は銃を降ろそうとはしない。
「だったら、何故あの男と行動を共にしているの?」
「計画に必要だからさ。それが終われば……」
女の傍らの刀がかちりと鳴った。
「殺す」
「ふざけるな! それは私の……!!」
激昂した少女のすぐ目の前に女が現れる。
二人の間にあった距離などなかったかのような動きだった。
少女は瞠目し、すぐに銃を構えなおした。
女は銃を気に止めることもなく言葉を続けた。
「有象無象の区別なく、私は人間に仇なす悪魔を斬り捨てる」
それではまるで、あの男はすでに、
「それってどういう……」
「そのままの意味だ。好きに解釈するといい」
だが、と彼女は一歩後ろに引いた。
「何やら因縁もあるようだ。アーカムは君に譲るとしよう」
女性には優しくが信条でなと、女はウィンクをしてみせた。
冷たい印象を持つ女の突然の行動に少女は驚いたが、やがて笑って銃を降ろした。
全てを信じることはできないが、少なくとも現時点では敵ではないと判断したのだ。
ねぇ、と問いかけたのは少女の僅かな好奇心と興味だった。
「貴女は魔界へ行って、何がしたいの?」
瞬間、アイスブルーが暗い輝きを帯びる。
「仇討ちと殲滅」
仇討ちという言葉に少女は反応を示した。
家族か仲間を、悪魔に殺されたのだろうか。
殺す為だけに魔界へ向かうと女は言う。
この女は歯向かう者には一切容赦せず殺すだろうと少女は感じた。
強い意志と確かな実力を兼ね備えている。
「そして最後は、 」
その言葉は囁くような微かな声色だったが、だからこそ少女には女が本気なのだとわかった。
それはあまりにも悲痛で寂しい言葉だった。
彼女がそんな悲しい結論に辿り着くまでに何を得、何を失ってきたのか、全く予測もつかない。
出会ったばかりの二人では、互いを肯定することも否定することも許されない。
だからこそ、少女は問うた。
彼女が向かう道の途中、少しでも足を止めてくれるような絆が生まれればいいと願いながら。
「ねえ、貴女の名前は?」
「だ。君は?」
「……捨てたわ、名前なんて。好きに呼んで」
僅かな沈黙で何かを悟ったのだろうに、はあえて何の追及もしなかった。
それが少女には有難かった。
「そうか、ではLady(お嬢さん)、手荒い真似はしたくない。すまないが大人しく待っていてくれ」
あの男は必ず君の元に送ろうと、が微笑む。
それ以上伝えることはなかったのだろう。
は少女の横を通り去っていく途中で、短い黒髪に手を伸ばし、頭を撫でた。
「お互い、父親には苦労させられるな」
ぽんぽんと軽く叩く様ですらあった手は、大きくて温かいものだった。
少女が思わず振り返った時には、青いコートの後ろ姿はすでになかった。
「そして最後は、悪魔に飲み込まれる前に、私もこの手で散ろう」
美しく散りゆくことを願うのが華の定めか。
華の散りゆくを知りて惜しむが人の性か。