『私』になる
家というよりかは屋敷や城といった表現が似合うその建物が、新しく『』として生を受けた彼女の住処だった。
前世、と言いきるにはまだ記憶が鮮明すぎる一般人に過ぎなかった頃には、画面の向こう側にしか存在しえないような場所だ。
おまけに両親共に美形とくれば、ますます何かの冗談か夢ではないかと思いたくなる。
そもそも此処はかつての彼女が住んでいた日本ではない。
父親は銀髪、母親は見事なブロンドの髪、話しているのは日本語ではなく英語だ。
日本人だった記憶が邪魔をして英語を取得するのに中々苦労するだろう。
学校で習うのはあくまでも受験英語なのだと思い知らされるばかりだ。
普通の赤ん坊に比べれば前世の記憶を持つ彼女は驚くほど早熟だ。
滅多に泣かず、大人しく、手がほとんど掛からない。
逆に『』の双子の弟であるダンテはよく泣きよく笑って気性が激しく手の掛かる、よく言えば赤ん坊らしい子だ。
そんな彼は何故か彼女の隣に寝かせておくと大人しいので、両親は二人を常に一緒にさせている。
大人しすぎる姉と手の掛かる弟、二人で丁度釣り合いが取れると母であるエヴァは笑った。
彼女は未だ上手く思う通りに動かない体を憎らしげに思いながら、頭上で交わされる会話を聞いていた。
毎日流暢な英語を耳にしているおかげか、全ての意味がわかるわけではないが、場の空気と声の調子でニュアンスを掴めるようになってきた。
なるほど留学が英語の勉強にいいと言われるわけだ、毎日聞いていれば嫌でも身に着く。
『』として生きるためには英語は必須だ、早く身につけておくに越したことはないと、目を閉じて神経を耳に集中させる。
隣がむずむずと動いて、シーツが引っ張られる。
昼寝をしていたダンテが目を覚ましたのだろう。
彼女は目を開けて頭をそちら側に倒す。
しょぼしょぼとまばたきをしていたダンテと目があった。
クリアブルーの真ん丸な瞳が彼女を写す。
綺麗な瞳だなと素直に見ていると、ダンテは何が楽しいのか、きゃいきゃいと笑いだした。
可愛らしい弟の様子につられて彼女も頬を緩める。
「見て貴方、ダンテったら、よっぽどが好きなのね」
「そうだね、ダンテはがいるといつでもご機嫌だ」
両親の笑う声が彼女の耳にも届く。
ひどく穏やかな家族の空間、なのに自分だけが異質に思えて彼女は悲しくなった。
死ぬ前の記憶を持った子供など、気味が悪いだろう。
ましてや未だに新しい人生を受け入れきれていない。
生まれて数カ月経った今でも、彼女の意識は過去に捕らわれているのだ。
仕事はどうなったのだろうか、可愛がっていた近所の犬猫はどうしているか、両親は……泣いていないだろうか。
寂しい、苦しい、忘れたい、受け入れたい、忘れたくない、受け入れられない、想いがぐるぐると小さな体を駆け巡る。
幼い体は内も外も柔く、重圧に耐えられるように出来ていない。
精神の不安定さが一気に体に表れる。
胸が、苦しい。
込み上げてくる吐き気を抑えて、彼女は必死に体を縮み込ませた。
シーツに埋もれる様に手足を折りたたみ丸くなる。
「あら、眠くなっちゃったのかしら」
ふふっと母の笑う声が聞こえて彼女は自嘲した。
当然だ、赤ん坊が自分の存在について考えているなんて普通は思いもしないだろう。
誰に受け入れられるというのだろう、こんな気持ちの悪い子供を。
泣き出したくなるが涙を流すことはできない。
母が心配してしまう。
そう考えて彼女はまた自分の異質さを苦々しく思う。
普通の赤ん坊ならば、そんなことは考えなくて済むのに。
泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑う、そんなことさえもすでに成人している精神が、大人としての自制心が許さない。
隣で笑う弟がひどく羨ましかった。
同じ日に同じ親から生まれ同じ顔しているというのに、中身はこんなにも違う。
この子の魂は自分と違ってまっさらなのだろう。
双子だというのに。
不意に服の裾が引っ張られる。
「あーぅ、うぅ」
喃語というものだろう、何かを言おうとしているのか、それともただの赤ん坊の生態反応なのか、彼女にはわからない。
引っ張られているのは腕の部分だ。
ギュッと掴んで離そうとはしない。
無理矢理引き離させては、まだ柔らかすぎる赤ん坊の肌に傷がつくかもしれない。
仕方なく彼女は引っ張られている方の腕をダンテへと伸ばした。
すると小さな指が掴んでいた服を離し、代わりに同じく小さな指を掴む。
急に指を掴まれてびっくりした彼女は目を瞬かせた。
思っていたよりもずっと強い、赤ん坊の握力はこんなにも強いのかと彼女が思わず感心してしまうほど強い力で、ダンテは小さな手で姉の指を握りしめた。
痛いくらいに握られた指の先から伝わってくる温度がひどく心地よくて、彼女は自然と体の力を抜いていた。
そんな彼女にダンテは笑いかける。
無邪気に柔らかに、素直に好意だけを表す様に。
彼女の中に愛しさが込み上げてくる。
こんな自分にも弟は笑いかけてくれる。
しっかと握られた指は自分を求めてくれているようで、彼女は愛しさのあまり泣いてしまいそうになる。
「だーうぇ」
ダンテと、声に出そうとしても幼い体では上手く言葉にできない。
それでも伝わるように、彼女はもう一度名前を呼ぶ。
「だーてぇ」
たとえ彼の行動に何の意図もなくても、ただそこにあったから掴んだだけでも、それでも、彼女にとってはそれが救いだった。
伝わる温度が、幼い笑顔が、彼女の胸に優しく沁み込んでいった。
「あーとぅ」
ありがとう、ありがとう、貴方が理解できなくても、ただ伝えたい。
こんな自分でもダンテが求めてくれるなら、この温度が傍にあるのならば、私は『』になろう、『』であろう。
貴方の姉でいよう。
「だーてぇ、あーとぅ」
彼女はこの日から『』である自分を受け入れ始めた。