只今停戦準備中

自宅と兼用している事務所から出て、さてどうするかとは携帯電話を取り出しつつ考える。
歩きながら片手で携帯を操作する。
電話帳を開いて、まずはダンテが正気に戻った後の対応をするかと発信ボタンを押した。
数回コール音が鳴ったかと思うと、相手が電話に出た。
「ああ、エンツィオか。……少し頼まれてほしいのだが」
詳しい説明はしないまま簡単に用件を話すと、情報屋である男が電話越しに渋る様子を見せる。
はため息をついた。
できるだけ穏便に済ませたかったのだが、相手方がそれを望まないというのならば仕方がない。
彼女は女子供には極端に甘いが、男相手ならば実力行使も厭わない。
そう易々と他人に話せるような事情ではない。
なにせ弟の不始末だ。
情報屋であるエンツィオならば、もしかしたら事情を知っているかもしれないが、ペラペラと他人に話すことはないだろう。
もし他言しようものなら、月夜の晩には背後に怯える生活が始まる、ただそれだけだ。
携帯越しに意識的に出した低い声で威圧しつつ、背中に括り付けている赤ん坊の様子を窺う。
もう目を覚ましてはいるようだが、静かなものだ。
会ってから泣き声一つ上げない。
だがそろそろ空腹に任せて泣き出すだろう。
は電話越しにきつく念押しをして、有無を言わさず電話を切った。
ここから融通の利く場所と言えば桃屋が一番近いのだが、それはダンテでも予測できるだろう。
ダンテが、ひいては自分が頭を冷やして冷静な会話ができるようになるまでは、最低限会いたくはない。
仕事場に迷惑を掛けるわけにもいかない。
ならばと、は電話帳から友人の名前を探し、ボタンを押した。

「すまないな、レディ」
電話で事情を説明したは、そのまま友人である女性の事務所へと足を運んだ。
出迎えたレディは事情を聴いていたとはいえ、やはり友人が突然子供連れで現れたというのは衝撃的だったらしく、子供の顔を見ながら『ついにあいつとの子を産んだの?』と色々と問題のある発言をした。
「別に構わないわ。友達じゃない」
コーヒーを片手にウィンクをする姿は同性であるから見ても可愛らしいもので、強張っていた顔が少し緩んだ。
はそろそろ時間だろうと、此処に来る道中に購入した哺乳瓶を熱湯消毒し、容器に書かれていた量の粉末ミルクとお湯を入れて振る。
適温に冷ますまでと、レディが赤ん坊を抱き上げあやす。
「それにしても、ダンテが、ねぇ。普段はあんなにシスコンなのに、やることはやってたのね」
抱き上げた赤ん坊を腕の中で揺する。
ついでにとレディは空腹にぐずる子供の顔を覗き込む。
銀髪とクリアブルーの瞳は確かにダンテ譲りのようだ。
瞳の色は兎も角、銀の髪なんてそうそういない。
二人の事務所の前にいて、が産んだのでないのならば、ダンテの子かもしれないと思わず納得させられる。
「シスコンと女は別だろう」
「貴方達に限って言えば別じゃないわよ」
意味深なレディの言葉を視線で受け流し、赤ん坊を受け取る。
適温になったミルクの入った哺乳瓶を抱え小さな口に近付けると、ゴムの擬似乳頭に吸いつき勢いよく飲み始めた。
は懸命に飲む赤ん坊がミルクで窒息しないよう、飲む速度を見ながら瓶をゆっくり傾ける。
やがて哺乳瓶の中身が空になると、背中を叩いてげっぷをさせる。
前世の記憶というか常識がこんなところで役立つとは、も予測していなかった。
実際はもっと細かく注意すべき点があるだろうから、本などで情報を仕入れるしかない。
何せ身近に出産や育児の経験者がいないのだ。
黙って一連の動作を見ていたレディが口を開く。
「こんなことは、あんまり、聞くべきじゃないんだろうけど……」
レディの言いにくそうな態度と先ほどまでの話の流れで、は問いかけられる内容を予測した。
空腹が満たされうとうとし始めた赤ん坊を揺らしながら、目を閉じる。
「ダンテとは……」
「ああ」
全てを言いきる前には肯定した。
想像するだけでも余り愉快ではないだろうに、女性の友人に言いにくい事を言わせてしまった。
故に彼女は肯定した。
友人を信用しているからこそ、嘘を吐く気はなかった。
「恐らくレディの予想していることは当たっている」
姉弟でありながら、二人の関係はそれだけではない。
それだけでは、終われなかった。
「だからこそ、この子の産みの親は、私では有り得ない」
「なんで!?だって二人は……!」
「実の双子だぞ?」
ひどく冷静な声だった。
誰よりも事態を理解し、悩んでいるのはなのだと、レディは思い至る。
スヤスヤと眠る赤ん坊を見るアイスブルーの瞳は優しい。
「血が近すぎる。心身ともにどんな障害を持って産まれてくるかわからない。ましてや実の姉弟の間に生まれたと知られれば、後ろ指を指されるのは子供の方だ」
子供にそんな人生を押しつけたくはないと、彼女は寂しげに笑う。
美しいのに、見る者の胸を締め付けるような笑みだった。
「だから私が母親になることはないし、ダンテが他の女性を抱こうと咎めるつもりもない。私は何処まで行っても、あいつの姉だ。それだけは、どうしようもない」
白い指が赤ん坊のふくふくとした頬に優しく触れる。
それだけの動作なのに、レディにはの悲哀が伝わってくる。
愛しているのに、愛しているからこそ、母親になれない。
その身に子供を宿すことはない。
目の前にいるのは愛した男の子供なのに、自分の子ではない。
「それで……いいの?」
余りにも悲しい、それ故に美しい想いだった。
はいつかダンテが自分の元を去っていくだろうと思い、その事さえも受け入れているのだ。
弟が姉以外に愛する女性ができても微笑むのだろう。
悲しく、優しく、聖母のような笑みで去りゆく弟を見送るのだろう。
歪な関係だと知りながら、どうしても手放すことはできないから。
それでも、ダンテが不毛な関係から抜け出すことができるのならば、それでいいのだと、彼女は笑うのだ。
レディはこの優しすぎる友人が幸せになれればいいのにと、いるはずのない神に縋りたくなった。
「それでいいんだ、私はもう十分に幸せだから」
愛する弟と可愛らしい友人がいて、子供さえもできたと彼女は笑う。
ついにぽろりと目の端から滴を零したレディの傍に寄り、は幸せそうに笑った。
「ありがとう、レディ」
指先で滴を掬い、自分のために涙する友人の額に口づけた。
はレディが後ろ手に電話の受話器を持っていることを知っていた。
もちろん、電話の相手が誰なのかも。
それでも、きっと正面からは言えない言葉だからと、電話を黙認したのだ。
「もう少しだけ、時間をくれ」
互いに時間が必要なのだと、はっきりと電波の向こう側へと伝わるように告げる。
相手が何を思ったかはわからない。
沈黙し続ける受話器をは静かに下ろした。