愛を叫ぶ獣
として生まれて早十七年余りが経っていたが、彼女はこの歳になって新しく発見したことがあった。
この体はアルコールに対する耐性が殆どないのだ。
前世では会社の同僚にちょっとした酒飲みとして知られていたのだが、以前と同じペースで飲むどころか、ロックのジン一杯でべろんべろんになってしまう。
その点、何故か双子の筈のダンテは、水のようにアルコールを消費できるのだ。
二卵性とはいえ双子で、遺伝子上のアルコール分解能力はそう変わらないはずなのに。
羨ましさと悔しさ――前の体ならばこれぐらい飲めたのに――が入り混じった複雑な気持ちがの中で渦巻く。
とかく、彼女は酒が好きだったにも関わらず、殆ど飲むことができなくなってしまったのだ。
「ふん……」
しかし今夜、は澄んだ琥珀色の液体を、グラスも使わず瓶に直接口付けながら煽っていた。
喉が高濃度のアルコールで焼かれるが、構わずに飲み干す。
熱が食道を通って胃に落ちた。
くらくらと素早く体を巡るアルコールに忌々しく舌打ちをして、二本目のブランデーに手を伸ばす。
彼女は元々ただ度数の高いウォッカやジンよりも、香り高く格調のあるブランデーを好んでいた。
今が手に取ったものも、先ほど飲み干したものも、決して安物ではない。
酒は楽しんで飲むべきであるというのが以前からのモットーであった。
しかし今の彼女は柳眉を寄せ、ひどく苦い顔をしている。
「何だかなぁ……」
自分でも何をやっているのかと呆れるが、今夜は飲まずにはいられない気分だった。
止めるであろうダンテもここにはいない――は目を伏せた。
持っていた瓶に頬を寄せる。ひやりとした感触が熱を帯びた皮膚に心地いい。
冷えてゆく肌に、この想いも簡単に冷えてしまえばいいのにと哂う。
叶う筈のない恋とは、なんて不毛な感情なのだろう。
は瓶を抱えたままソファに横たわった。
彼女にとって、二度目の生はダンテのためにあるのだと言っても過言ではない。
以前の死を、新しい生を、受け入れることができたのは、自分を受け入れてくれた守るべき弟がいたからなのだ。
父消え母は殺され、この手を赤く染めてでも生きていたのは全てダンテがいたから。
初めて人を殺めた日、正気を失わずにいられたのは隣で眠る温もりがあったから。
「だからって、これはないだろう……」
一度目は気のせいだと思った。
ダンテが女と楽しげに談笑しながらバーに入って行くのを見て、呆れると同時にツキリと胸が痛んだ。
二度目は恐怖だった。
路地裏でダンテが女とキスを交わしている姿を見て、胸の中で嵐が巻き起こった。
三度目は諦観だった。
何度目か数えるのも馬鹿らしい朝帰りをしたダンテの身に纏いついた香りに、締め付けられる胸がそれは恋なのだと告げていた。
「馬鹿か、私は」
相手は実の弟だ。
正真正銘血の繋がった、同じ両親を持つ姉弟なのだ。
想ってはいけない相手だった。有り得てはいけない想いだった。
前世から受け継いできた良識が彼女を攻め立てる。
記憶に残る優しい両親のいた家族の風景を汚してしまいそうで、罪悪感が募っていく。
何度も否定し、幾度も捨てようとした想いは、それでも尚強くの胸に根を張って動かない。
「ダンテ……」
呼びかけても答える相手はいない。
今頃は何処かの女の家で仲良くやっているだろう。
アルコールは完全に回り切っているのに、正体を無くせない自分が悲しかった。
は強く自分を抱き締めた。想いを自分の中に閉じ込める様に。
「だんて」
答えのない呼びかけは誰の鼓膜を震わすこともなく空気に溶けてゆく。
「あいよ」
――筈だった。
はソファから起き上がる。
今夜、ダンテは帰って来ないはずだ。
だからこそは珍しく酒を買い込んで一人自棄酒に走ったのだ。
声が聞こえるはずがない。
幻聴が聞こえるとなると、そろそろ末期かもしれない。
シャワーでも浴びれば少しはスッキリするだろうか。
立ち上がろうとソファについた手に力を入れるが、ぐにゃりと崩れる。
アルコール摂取量が限界を超えていたのだろう、動けないならばこのまま寝てしまおうかと、もう一度ソファに倒れ込んだ。
「おーい、人のこと呼んどいて自分は寝ちまうのかよ」
覗きこんでくる赤い影をはぼんやりと見つめた。
今夜、此処にいる筈がないダンテによく似ている。
「……幻聴に続いて幻覚も、か?」
それともと、彼女は体に力が入らない代わりに、神経を集中させ魔力を滾らせる。
弟の姿をした何者かを囲むように、青い魔力の剣が無数に展開された。
「悪魔か」
「Wait, wait, wait! くそっ、完全に酔ってやがんな!?」
「うるさい……」
慌てた様子と無駄にやかましいところがまたダンテにそっくりだ。
よもや本物かと思い掛ける自分には首を振った。
あのダンテが女を放って帰宅するなど、には考えられなかった。
だがそれにしては一挙一動がダンテに似すぎている。
今も慌ててはいるが焦ってはいない、何処か余裕のある笑みが唇の端に刻まれているのが見える。
硝子の様な澄んだ音を立てて、幻影刀が砕け散った。
面倒になったが消したのだ。
アルコール漬けの脳は物事をぐだぐだと考えることを拒否していた。
「もういい、好きにしろ」
たとえ相手が悪魔であろうと幻覚であろうと、ダンテの姿をしている者に全力で攻撃することはできないのだと、は自分がよくわかっていた。
どうせ叶わぬ想いに胸を焦がす身、いっそ殺されても構わないだろうと常にない思考をしたのは、酒の魔力だろうか。
「殺したければ殺せ。お前がその姿でいる間は抵抗しないさ」
思わぬ言い様に『ダンテ』がぎょっとした。
「おいおい、本当に大丈夫か姉貴? 飲み過ぎだろ」
「ああ、そうだな」
だが悪い気分ではないと、は笑う。
これが夢か現実かもわからないが、愛した男の手にかかって死ねるのならば幸せだと思えた。
少なくとも前世の、車に轢き逃げされたという死に様よりはずっとマシだ。
悪魔の血のお蔭で回復というよりかは再生と言った方がいいだろうというほど生命力が強い体ではあるが、首を落とされでもすれば流石に死ねるだろう。
ソファに寝転んだままのは『ダンテ』がやりやすいようにと首を上に逸らす。
普段はスカーフに守られている白い喉元が晒された。
「……なんで、アンタ、そこまで」
苦いものを浮かべながら『ダンテ』は思わずといった風に呟いた。
相手は紛うことなき酔っ払いで、聞くだけ無駄だとわかっているのだろう。
それでも零れてしまった言葉には甘く蕩ける様な笑みを浮かべた。
「愛しているよダンテ、お前を愛している。他の誰も目に入らないくらいに、お前を、お前だけを愛している。だからいいんだ、お前に殺されるのなら、お前が私を殺してくれるなら、私は死んでもいい」
幸せそうに、夢見る様に彼女は告げた。
ダンテ本人には告げる気のない愛の言葉を、恥ずかしげもなく――実際彼女は相手を幻覚か悪魔が化けているものだと思っているのだから恥じらう理由もない――滔々と謳い上げた。
「それは……どういう意味でだ?」
『ダンテ』が問う。
常になく静かに深い声で、だから彼女はやはり本物の弟ではないのだと思った。
本物でないのならば何故そのようなことを聞いたのかという疑問は、ぼやけた頭の中で形を成さない。
ただ、本物のダンテではないと判断したからこそ、は素直に、何の衒いもなく答える。
「私の持ち得る、或いは人間が持ち得る愛情と名のつくもの全てで」
弟として慈しんできたことも、家族として支え合っていたことも、片割れとして過ごした日々も、形は違えども全て愛に満ちていた。
その中で新しく芽生えてしまった感情もまた違う形の愛だった。
の中で愛と名の付くものは全てダンテに捧げられてしまった。
それがよかったのか悪かったのか、本人にもわからない。
執着、依存、一皮めくれば愛情の裏側にはおぞましいものが渦巻いていることも彼女は理解していた。
だからはダンテに告げることを良しとはしなかった。
弟と自分では、愛の意味が重ならないことを知っていたから。
「なぁ、姉貴」
『ダンテ』が話す言葉をは静かに聞いている。
静かに深淵から響くような声は、確かにダンテの声でありながらダンテの声でない様な錯覚に陥る。
「俺はアンタが好きだよ。誰よりも大切で、愛おしくて、恋しい。アンタだけなんだ。アンタが俺を想ってくれてるぐらいの強さで想えているかはわからないけど、俺はアンタを愛してる。本当はきっと、アンタ以外は、いらないんだ」
『ダンテ』は語る。
は聞く。
夜の闇と酒精の甘い匂いが二人を包んでいた。
「なあ、、姉さん」
懐かしい呼び方だとは微笑む。
まだ母がいた頃、二人が無邪気な子供でいられた頃のダンテが、を「姉さん」と呼んでいた。
今ではすっかりなくなってしまった過去の話。
なんと優しい夢なのかと、は笑んだ。
「俺は、アンタを手に入れてもいいのか?」
「それをお前が望むなら」
答えはひどく優しく響いた。
夢ならば覚めなければいいのに。
はゆるりと瞳を閉じる。
転がった瓶だけが、重なった二つの影を見ていた。