獣たちの夜明け

その朝の彼女の気持ちを素直に表すなら、この一言に尽きるだろう。
――どうしてこうなった
ガンガンと痛む頭を抱えては目の前の現状を把握すべく、思考を巡らせていた。
頭痛は昨夜のウィスキーが残っているせいだろう――いい酒は悪酔いしないというが、二日酔いはまた違う問題だったらしい――からいい。
いや、よくはないのだが、原因が理解できるという一点に於いてのみはまだマシだ。
それよりもは、一階にいたはずなのに何故二階のベッドにいるのか、いつの間にコートとブーツを脱いだのか、そして何より――。
アイスブルーの瞳がきゅっと細まる。
比喩ではなく、本当にすぐ目の前という近さで眠るダンテは一体どういうことだろうか。
寝室に時計はないので時間の確認を仕様がないのだが、カーテンから差し込む光と外の声の様子から、まだ早朝と呼べる時間帯だろう。
今までの経験からして、ダンテが早い時間に帰宅するなどあり得ない。
その点、は悪い意味で弟を信用していた。
昼過ぎになって帰ってくるだろうことを見越して、二日酔い用に薬も用意し、更には翌日の食事の下ごしらえさえも済ませてから、一人で自棄酒に浸っていたのだ。
だが現状はどうだろう。
あまりにも予定とは違いすぎる。
も目覚めてからずっと現状について考え込んでいたわけではなく、響く頭痛にとりあえず薬を飲もうと起き上がろうとしたのだが、体がしっかりホールドされていた。
もちろんダンテの腕というか全身に、である。
何処でこんな見事な拘束術をと、一瞬頭痛も忘れて感心してしまうほど一切の動きが封じられていた。
動くこともできず手元に閻魔刀もなく――あったらどうしたのかと聞くのは野暮というものである――どうしようもないので、彼女は現状把握に徹しているのだ。
兎に角、こうなった経緯を時事列で考えてみる。
昨夜は一階のソファでウィスキーをラッパ飲みしていた。
瓶を一本開けたところでかなり酩酊状態だった。
その証拠に、二本目に手を伸ばした辺りでバローダは幻聴と幻覚を認識したのだ。
「……あれ?」
幻覚で幻聴、もしくは悪魔であるはずなのだ。
その時点でダンテが帰って来るはずがない。
少なくとも昨夜そう判断してしまったにとって、昨夜のダンテが本物であっては困るのだ。
勢いに任せて余計なことをベラベラと言ってしまった記憶がかなり明確に残っている。
言う気もなかったことを包み隠さず喋ってしまった。
今更責めてもどうにもならないが、できれば口封じに過去の自分を閻魔刀で斬りつけたい気分である。
殴るで済まないない辺りが彼女の混乱と本気の度合いを窺わせる。
不意にはっとは動けないながらも下を向いて自分の体を確認した。
纏わりついているダンテはうざったいものの、体に違和感はない。
下半身がだるかったり鈍痛があったりもしない。
よしっと、彼女はガッツポーズを取りたいぐらいには気分が上昇した。
性交渉の跡がないということは、昨夜のことは夢、もしくは幻覚や悪魔だったという可能性がまだ残っているということである。
たまたま早く帰ってきたダンテが、一階のソファで眠りこんでいた姉を見つけてベッドに運び、眠気を誘われてそのまま一緒に眠ってしまったのかもしれない。
或いは悪魔に殺されそうになっている姉を助け、用心の為同じベッドに寝たとか。
十分あり得ることである。
むしろからすれば、そんな感じでお願いしたい。
体が完璧にホールドされているのは、この際寝相ということで片付けてしまおうと、は現状をまとめ上げようとした。
ダンテが目を覚ますまでは。
銀色の睫毛が震え、瞼の奥から現れたまだ眠そうなスカイブルーは、の姿を捉えると、きゅうっと焦点を合わせた。
「……おはよう
朝の挨拶と共に向けられた笑みで、瞬間湯沸かし器もかくやと見事な速度では赤面した。
――なんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれは!
脳内を同じ言葉がぐるぐると回る。
向けられたのはいつものような余裕や皮肉に満ちた笑みでなく、とろけるような甘い笑顔と声だった。
表情が、声が、空気が、ダンテから発せられる全てがに訴えかけていた。
ただ一つ、愛おしいと。
熱を持った顔を見せるまいとは必死に俯くが、そのつむじに軽く何かが押し付けられる感触と耳に届いたリップ音で、恥ずかしさのあまり死にたくなった。
ついでにその衝撃で二日酔いも吹き飛んだ。
「どうしたんだよDarling?」
楽しげな声と共に、の髪にキスの雨が降り注ぐ。
なんだこの新手の拷問、いっそ殺してくれ。
は羞恥に身悶える。
だがいつまでも俯いて震えていても状況は変わらない。
顔を上げ、ついでに頬や額にも触れそうになった唇を、首を後ろにスウィングして避ける。
残念そうな顔をしたダンテに顔を引き攣らせた。
「一つ、質問がある」
気を取り直したのか、ダンテはにやにやとしている。
「何だ?」
「……その前に、取り敢えず離せ」
ダンテが起きた後も体はがっちりと抱え込まれたままである。
話をしようにも、全体的に距離が近い。
が肩で押しやろうとしても、びくともしない辺りが憎らしい。
どうやら離す気はないらしく、にやけたまま無言でこちらを見つめているダンテにの方が折れた。
それでも諦めず抵抗しようとばかりに、彼女は目を逸らした。
「………………あー、昨日の夜……なんだが」
たっぷりと間を置いては切り出した。
視線は明後日の方向を向いたままである。
ダンテの行動で、昨夜のことが現実味を帯びてきていた。
あれが現実で本物だったとしたらと、は身を震わせた。
「お前は、あれだ……その」
曖昧に言葉を選ぶ。
質問の余地を許さず、それでいてはぐらかされないように聞きださなければならない。
答えの如何によっては誤魔化し欺き、更に場合によっては――は目を閉じる。
次に目を開けた時、彼女の覚悟は決まっていた。
「何もなかった、よな?」
酔っていたから記憶が曖昧なんだと、は嘯く。
その言葉がまるきり嘘というわけではない。
記憶自体は残っている。
その真偽が疑わしいだけで。
疑わしいと、思いたいだけで。
真剣な眼差しの姉を安心させるようにダンテは柔らかく、穏やかに笑った。
何もなかったのかと気を抜きそうになったの鼓膜を、低く愉悦に満ちた声が震わせる。
「そんだけ動揺してるってことは、覚えてねぇわけないよな」
ぞくりと、その時彼女の背を震わせたのは何の感情だっただろう。
離れようと動くも、逃げることはできない。
完全に動きを止められた体は、まるで最初から逃げることを予想していて、それを防ぐためだったかのようだ。
拘束とは比喩ではなく、そのままの意味を持っていたのではないか。
「熱烈な告白だったぜ」
時が凍りついた。
これ以上ないほど見開かれたアイスブルーの瞳が縋るようにダンテを見る。
薄く開かれた艶やかな唇は青ざめていた。
白く滑らかな肌は血の気が引き、病的なまでの色合いへと変わっている。
「……めろ…………」
「ん?」
上機嫌で姉を拘束するダンテが、にやにやと笑いながら何かを訴えかける小さな声に耳を傾ける。
玲瓏としたの声は酷く怯えていた。
「やめろ駄目だ、駄目なんだこんなこと、あってはいけない、ただの気の迷いだ、そうだそうじゃなきゃいけないんだ」
常になく聞き取りづらい声は、壊れたテープレコーダーのように止まらず、ただただ否定し続ける。
昨夜の過ちを、己の言葉を、ダンテの感情を。
冷静で穏やかな姉が自分のことで苦悩していることはダンテを満足させたが、同時に、否定され、なかったことにしようとするその様子に苛立ってもいた。
昨夜唐突に帰ろうと思い立ったのは間違いではなかった。
そうでなければ、彼女は自分に想いを伝えることはなかっただろうとダンテは断言できる。
そして何も言わずに身を離して行ったのだろう。
冗談ではない。
自分たちは双子で、離すことのできない魂の片割れ同士なのに。
どうして離れられると思っているのだろう。
ダンテは遣る瀬無い気持ちをそのまま吐きだす。
「だーっ、くそっ!」
ダンテは強くを抱きしめた。
逃がさないというように、細い体を腕に力いっぱい閉じ込める。
そして震える姉の体に叩きつける様に叫んだ。
「愛してる愛してる愛してる愛してる! いい加減信じろよ! あれは現実で、俺は本気で、全部本当のことだ!!」
忘れることも誤魔化されることも許しはしないと、青空によく似た色の瞳が苛烈な炎を宿してに訴えかけてくる。
薄氷色の瞳が揺れる。ダンテの想いの強さに、決意が揺らぐ。
「建前とか世間体とかはもううんざりだ! 俺が知りたいのはアンタの本音だけなんだよ!」
血を吐くような叫び声が、真っ直ぐな言葉が、の胸に突き刺さる。
傷つけたかったわけじゃない。
ただ幸せになってほしいだけだった。
自分とでは駄目なのだ。
叶わない願いであることは知っていたから、想いを閉じ込め、他の女と幸せになってくれることを祈っていた。
「ダンテ……」
苦しくないはずが、なかった。
苦しくて悔しくて悲しくて、それでも、愛おしい。
想いが消えるはずがなかった。
想いを殺せるはずがなかった。
姉弟愛の仮面を被った恋慕は、時と共に膨らむ一方だった。
傍にいることが辛かった。
離れることが苦しかった。
押し潰していた想いは、いつだって悲鳴を上げていた。
「なあ、姉さん」
ああ、どうしよう。
「俺はアンタが欲しいよ」
込み上げてくる想いが溢れて止まらない。
それは罪だと知っていた。
誰よりもは禁忌に触れることを恐れていた。
「ダンテ……」
それでも、簡単に諦められるほど生半可な想いではなかった。
は震える唇で罪を紡ぐ。
「愛してる……誰よりも、何よりも」
押し潰されていた想いが、今、産声を上げる。