岐路

母が死んだ。
母は殺されたのだ。
まだ幼いダンテの目の前で、三つ目の大悪魔によって。
それが起こったのは、父がいなくなってからそう日は経っていなかった。
ある日突然、大量の悪魔が家を襲撃してきたのだ。
何の前触れも予兆もなく、穏やかな日常は壊れた。
未熟ながらも母と弟を守るため閻魔刀を振るい悪魔を駆逐していたは、母の死に目に合うことができなかった。
駆け付けた先で、虚ろな瞳から涙を零しながら母の冷たい体を抱きしめる弟を、呆然と見ることしかできなかった。
それがいつまでも彼女の胸の底に澱となって残っている。
父は姿を消し、母を失い、十にも満たない歳の子供が二人、無慈悲な社会に放り出された。
庇護してくれる人間などいない。
悪魔であった父に親類などいないし、母の親戚は既に亡くなっている。
子供を引き取ってくれるような知り合いもいない。
せめて生活できるだけの先立つものがあればよかったのだが、悪魔の襲撃によって全てが灰になってしまった。
残ったのは身に着けていたアミュレットと、それぞれが父から授かった二つの剣ぐらいのものだ。
服も本も絵も、ベッドなどの家具さえも、跡形もなく燃えた。
住んでいた城は、生活していた名残さえ見えぬほど、強い火の勢いに飲み込まれ崩れてしまった。
「ダンテ、行こう」
何もなくなってしまった我が家の跡を痛ましげに見ていたが弟に言う。
此処にいてはまた悪魔が襲ってくるかもしれない。
姉の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ダンテの顔には何の表情も浮かんでいない。
母の死の瞬間を直視してしまったその時から、幼く柔らかな心は感情を失ってしまった。
「……どこに?」
一言だけ呟かれた弟の言葉に、咄嗟には答えられなかった。
何処に行けるというのだろうか。
二人の居るべき場所は、もう燃えてしまった此処以外にない。
子供が二人で何ができようか。
保護者なくして生きることは難しい。
特殊な出自を考えれば、孤児院に行くわけにもいかない。
また悪魔に襲われることは目に見えている。
何処にも行けない。
何処にも居場所なんてない。
バローダは閻魔刀を強く握る。
もっと自分に力があれば、弟の心がこんなにも傷つくことはなかったのだろうか。
母が死ぬことはなかったのだろうか。
偉大だった父のような力さえ、あれば。
行き場を失った二つの背中は、悲しいほどに幼かった。

は焼けた城跡を、煤だらけになりながらも掘り返した。
何か燃え残っているものがないか、使えるものがないかと漁っているのだ。
ダンテはその瓦礫の下でしゃがみ込んでいた。
強い精神的ショック受けた弟を無理に働かせるつもりはなかった。
体に受けた傷は悪魔の血がすぐに癒してくれるけれども、心の傷はそうそう塞がるようなものではない。
は全身を使って瓦礫を除けてゆく。
長く艶やかな髪は黒く汚れ、白い肌のいたる所に悪魔を斬った返り血と自分の血がこびりついている。
青色だったワンピースは、斬られ、擦り切れ、血や煤で汚れ、その面影を残してはいない。
細い脚が足元の瓦礫を蹴った。
「あっ……」
蹴った勢いで壁だったものが割れ、踏んでいた場所がガラガラと音を立てて崩れる。
咄嗟に二、三歩下がって巻き込まれるのを防いだの目に、何か箱のようなものが見えた。
今まで見つからなかったのは、崩れた下にあったからなのだろう。
重厚な金属製の箱は、炎の中でも燃えずにそのままの姿を残していたらしい。
全体に煤がついてはいるが、幼い瞳にも箱の細工が見て取れた。
中には何が入っているのだろうか。
は一抱えもある大きなその箱を両手で軽々と持ち上げる。
こういう時、悪魔の血はとても便利である。
外見に見合った重量のそれを持ったまま、は一度瓦礫の山から下りた。
しゃがみ込んでいたダンテがちらりと姉の方を向く。
全身が汚れきったは、それでも瞳だけが力強い光に満ちている。
安っぽい希望ではなく、必ず生き残ってみせるという貪欲な意志の光だ。
ダンテは身の丈ほどもある大剣をぎゅっと抱え込んだ。
何処にいるかわからない父の面影に縋るように。
双子だというのにこの違いは何だろう。
自分が塞ぎ込んでいる間も、生きるための道を探すがダンテには眩しかった。
弱い自分ではなく、強い姉が傍に入れば母は死なずに済んだのではないだろうかという考えさえ浮かんでくる。
母の死に様が脳裏を巡り、ダンテは慌てて頭を振った。
その横で、は箱を地面に置き、自らも地面に座り込む。
小さな指が箱の留め金を外した。
軽く押し上げると、蝶番が軋んだ音を立てて、蓋が持ち上がる。
赤いビロードが張られた箱の中には、指輪やネックレスやブローチといったささやかな貴金属と、数枚の紙が入っていた。
アクセサリー類は恐らく母の持ち物だろうが、生活のためには何処かで換金することになる。
普段使いではないことからして、何らかの思い入れがある品だったのだろう。
母の身のみならず思い出の品さえも守れないことを申し訳なく思いながら、は紙に手を伸ばした。
「写真?」
紙の中で二人の赤ん坊が笑っていた。
銀色の髪に微妙に色合いの異なる青い瞳、鏡に写したようにそっくりな顔つきの子供たちは、産まれて間もない頃のダンテとだろう。
また違う写真には少し成長した双子が写っている。
アルバムとはまた別に母が取っておいた写真なのかもしれない。
その殆どがダンテとが写っているものだった。
写真に目を通していると、ある一枚の写真での手が止まった。
「ダンテ」
名前を呼ばれて顔を上げたダンテに、一枚の写真が押し付けられる。
「それはダンテが持ってて」
他の写真を全て箱に戻して蓋を閉めると、は再び瓦礫の発掘作業に挑み始めた。
素手で瓦礫を掘り返す背中を見送ってからダンテは写真を見る。
金色の長い髪を後ろに流した女性が、膝の上で手を組み椅子の上に座っていた。
そう新しい写真ではないのだろう、僅かに色が褪せている。
しかしその美しい顔に湛えられた優しい笑みは褪せることなく、鮮やかなままだった。
「母さん……」
姉が何故母の写真だけを自分に渡したのかはダンテにはわからない。
だが持っていてくれと言われたのだ。
自分の無力さゆえに失ってしまった母の姿を写したものを。
守らなきゃ。
今度こそ、守り抜くんだ。
ダンテは前を見据え、己の足で立ち上がった。