停戦条件一方破棄
ダンテは自省していた。
何をやっていたのだろうか、自分は。
愛されていることをわかっていて、実感が欲しくてわざと嫉妬させるような行動を取って、結局誰よりも大切な人を傷つけていた。
いつだって、傷ついていたのは姉なのだと気付くのは事が終わってからだ。
母が死んでからも、初めて彼女の本音を聞いた日も、そして、今も。
「マジで何やってんだろうな、俺」
ダンテは走っていた。
の言葉が理解できなかったわけではない。
むしろ痛いほどわかったからこそ、彼は走っていた。
どうしたって放っては置けないのだ。
泣いてはいないだろう。
誰かがいる場所で泣けるような人ではない。
が泣ける場所になりたかった。
自分以外の前で涙など見せてほしくなかった。
彼女は自分の感情の清濁も合わせて飲み込んでしまう。
誰にも見せずに消化して、なかったかのように振舞ってしまう。
わかっていたのに、わかっていた、はずなのに。
「ばっかみてぇ」
呟いた言葉はそのまま自分の胸に突き刺さる。
まだレディの家にいるのだろうか。
一人でならわからないが、赤ん坊がいる限り行動は制限される。
子どもを置いて何処かに行くような彼女ではない。
恐らくはいるだろう。
伝えた言葉をそのまま理解したであろう弟が、その意に従ってくれると思って。
だが彼女は忘れている。
姉としてのの言葉には従うが、愛する人の言葉には時と場合に置いては逆らうこともあるのだ。
――アンタを泣かせないために強くなったって言ったら、アンタは笑うだろうか
泣かせたくないのに泣かせたいとは、我ながら矛盾しているとダンテは哂う。
きっとなら笑うだろう。
困ったように、子どもを宥める様に、愛しさを含んだ瞳をダンテに向けて、笑うだろう。
簡単に予想できる反応にダンテは歯噛みした。
それは告白前と何が違うと言うのか。
ダンテは、姉の寵愛を受け続けた弟は知っていた。
姉の感情は確かに愛だ。
それは違えようもない、これ以上もないほど深い愛情だ。
愛情という名の全てを包括したような深い感情だ。
だがそれ故に知っていた。
彼女自身、気づいているかどうかもわからない。
「Hello?」
ノックもなしにダンテは扉を蹴り開けた。
家の主であるレディは珍しく咎めることも発砲もせずに、ハンドガンを片手に構えたまま呆れたようにため息を吐いた。
ソファには赤ん坊を抱えたが座っている。
ダンテの唐突な家宅侵入に一瞬目を丸くしたが、すぐに冷たく睨みつける。
瞳には拒絶の光を宿して、憤怒を押し込めた蒼は冷たく輝いていた。
「来るなと、言ったつもりだったが」
「来ないって言った覚えはねーな」
鋭い声は真っ直ぐにダンテへと牙を剥く。
だが姉の言葉に傷ついたりはしない。
本当に傷ついているのは誰なのか、よく知っていたから。
ゴツリ、ゴツリと、わざとらしく足音を響かせながらダンテは姉に近づく。
は、逃げなかった。
立ち上がりもせず肩を震わせるでもなく、真っ直ぐにダンテを視線で射抜く。
目の前まで寄って来てさえ、尚も眉をほんの少し歪めた程度で、弟から視線を離さなかった。
ゾクゾクと寒気にも似た恍惚がダンテの背筋を走る。
憤怒の奥に隠れている悲哀を知っている。
拒絶の奥にうずめた悔恨を知っている。
その無残で悲痛で哀れな感情の全てが自分から生じたのだと、知っていた。
後悔はある。
最愛の姉を苦しめてしまったことに対する懺悔の気持ちもある。
だが本人を目の前にすると、違う感情が頭を擡げるのだ。
独占欲、支配欲、占有欲、所有欲。
言葉では足りないほど、凶悪なまでに胸の中で暴れる感情がある。
伸ばした手は滑らかな頬に触れた。
は動かない。
立ち上がろうともせず、椅子に座ったまま微動だにしない。
ダンテも、何も言わない。
手が持ち上がり、降りていた前髪を一筋持ち上げ、そっと耳に掛けた。
互いに瞳は逸らさぬまま、二人はただ口を閉ざしていた。
傍から見ればただの恋人同士のやり取りにしか見えないが、周囲を取り巻く空気はあまりにも重かった。
「人の家で痴話喧嘩も大概にしてくれる?」
沈黙を破ったのは家の主であるレディの一声だった。
は視線をダンテから外し、レディに向ける。
ダンテはしか見ていなかった。
「あんたら無言で喧嘩するから、こっちとしても対応に困るのよ」
やれやれと頭を振る度に、ぱさぱさと短い黒髪が音を立てる。
は友人をじっと観察し、やがて唇を開いた。
「すまなかった、扉の修繕費は後で請求してくれ」
赤ん坊を抱えたまま立ち上がる。
閻魔刀を持ったまま器用に赤ん坊を胸に抱え、はすたすたと、ダンテなどまるで存在していないかのようにその横をすり抜け、レディの近くへ寄る。
「荷物は後で届けてくれると助かる」
「何処へ?」
レディの問いに、は暫し口を閉ざし、赤ん坊を見る。
満腹になったらしい赤ん坊は、それが仕事とすやすや眠っている。
安らかに、穏やかに、眠っている。
「……事務所へ、頼む」
レディはの言葉にほっと顔を緩めた。
仲違いしている双子を見るのはひどく座りが悪い。
ただでさえバラバラに行動している二人を見ると違和感がある。
二人はそれぞれが強大な力を持った美しい個体でありながら、一つのピースのようなものなのだ。
二人でいて初めて完成品、一人一人では何処か欠けている。
あのアミュレットに似ているとレディは思っていた。
母の形見だと言っていた、二人が首に掛けている赤い石のついたアミュレット。
一つでは只のお守りに過ぎないそれは、二つ合わせると封印を解く鍵となり、力となる。
「……面倒をかけた」
は振り返らずレディにこぼすと壊れた扉から外へと出て行った。
「悪かったな!」
「そう思うなら怒らせないでよ」
誰をとは言うまでもない。
颯爽と歩く姉の後を追ってダンテも外に出る。
ダンテは知っていた。
の想いを暴いた夜、彼女の愛はまだ親愛や姉弟愛、家族としての愛情が勝っていた。
それ故に、それまでは理性が勝っていた。
彼女は知っているだろうか。
酒の力で緩められた理性から綻び落ちた言葉は正真正銘本物だったけれども、全てではなかった。
禁忌の想いを引きずり出し増幅させたのは、紛れもないダンテだった。
けれども、全ては今さらだ。
たとえばそれをわざわざ教えたとして何になろう。
そもそもあった愛情が失せるわけではない。
関係が変わるわけでもない。
の愛情と名の付く感情は全て自分に注がれていることを彼は知っていた。
何があろうと、それが揺らがないことも。
傷ついても尚凛とした姉の後ろ姿を追いながら、ダンテは唇の端で嗤った。
傷つけたくないはずなのに、自分の為に傷ついたその姿はこんなにも美しく愛おしい。