本当にあった怖い話
異常気象が騒がれる今年の夏は、例年よりも気温が大幅に高い。
それは悪魔も泣き出すと噂の何でも屋の事務所でも変わらない。
熱中症にかかることは悪魔の血が防いでも、気温の上昇による不快感は人間と同じだ。
冷房代を酒とストロベリーサンデーに費やした男によって、事務所は室内でありながら蒸し風呂のような状況に陥っていた。
「あんた、ばっかじゃないの?」
遊びに来るついでに、ダンテに面倒な仕事を押し付けようとしていたレディは、部屋のあまりの暑さにダンテをなじる。
は現在出かけている。
何をしに出たのかはダンテも知らない。
三十分前、ダンテが寝室から降りてきた時には既にいなかった。
おおよそ暑さに耐えかねたのか仕事か、あるいはその両方だろう。
相も変わらず事務所でいかがわしい雑誌を読みふけっているダンテは、レディの辛辣な言葉に顔すら上げようとしない。
聞こえてはいるだろうに反応を返さない男を、持ってきていた仕事の資料を叩きつけてやろうかとヘテロクロミアの瞳が睨みつける。
無駄だとわかっていても攻撃したくなるのは性だろうか。
暑さに茹だった頭でダンテへの攻撃方法を考えていると、その僅かな殺気に気づいたのか、ようやくスカイブルーの目がレディを見た。
「で、何の用だ?」
率直な言葉は、彼女が自分個人に用があるとは思っていないからだろう。
一応友人ではあるが、二人の間にあるのはドライでシビアな関係だ。
互いの実力は信頼しているが、相手を信用してはいない。
だがそれがいい、それでいい。
「これよ。はい、仕事」
レディは資料をダンテの座る机に放り投げた。
紙は机の上を滑り、武骨な指に掬いあげられる。
「それにしても、ホンット暑いわ」
白い肌に浮きあがる汗を拭う。
ダンテもこの暑い中着込むのは嫌だったのか、コートを脱いで袖を捲り上げていた。
その割には汗一つ掻いていない涼しげな顔が憎らしい。
無精髭の所為で十分むさ苦しくはあるのだが。
「たしかにな」
気のない声でダンテも肯定する。
うっとおしそうではあるが、暑さに辟易している様子はない。
半魔は暑さを感じなくなる体質をしているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい考えがレディの頭をよぎる。
「何か飲み物とかはないの?」
「あー、勝手に」
冷蔵庫の中でも探せよと、ダンテが口にする前にレディは冷蔵庫を開けていた。
大げさに肩をすくめながら机に紙を投げ出す。
飲み物と言っても、どうせ水とトマトジュースしか入っていないだろう。
夏場いつもレディやトリッシュに振舞われるアイスティは、パックの安物ではなく、がわざわざその時淹れているものだ。
もちろん、冷蔵庫に常備しているはずもない。
戻ってきたレディの手には、ダンテの予想通りミネラルウォーターのペットボトルが握られていた。
「なんか涼しくなることってないのかしらね」
お金がかからずに、と付け加えられた言葉に、レディらしさを感じる。
「さてね、図書館でも行ってきたらどうだ」
「そんなキャラじゃないわよ」
別段本を読まない訳ではないが、あの静謐すぎる空気がレディはあまり好きではない。
何か調べ物でもない限りは、行こうと思えないのが実情だ。
ダンテとてそれは同じだろう。
もっとも、ダンテの場合は調べ物をしたければ自力で本を探すより、姉を頼った方が断然早いのだが。
「あー、涼しくなること、ねぇ」
そんなこと、何かあっただろうか。
金がかからないという縛りまであって、かつ手ごろに涼しくなれる方法。
正直姉と悪魔と、ついでに反抗期の息子のこと以外では頭を使いたくないのが実情だ。
だが、ここで何も言わなければ、詰られ蔑まれ役立たず扱いされた挙句、面倒ばかりで実りのない上につまらない仕事を山のように押し付けられることは目に見えていた。
流石にそれは頂けない。
「いっそトリッシュが着てた教団服ぐらいまで露出度を上げたらどうだ」
パンッと鼓膜に響く音が事務所の中を木霊した。
「……オーケィ、わかった。俺が悪かったよ」
無表情で銃口を突き付けるレディに、ダンテは両手を上げて降参の意を示す。
体内の血液量が少し減ったせいか、ダンテはさっきよりも少し涼しくなった気がする。
レディに言えば後十発は撃たれそうなので、口にはしないが。
「そうね、怖い話とかないの?」
怖い話、怪談話、デビルハンターにそれを求めるのは間違っている気がする。
ホラーといえば、仕事自体がホラーみたいなものだ。
そんな職に就いていて、幽霊ごときでビビるようなタマではないだろう。
大体、本当にそれで涼しくなるのか。
恐怖で涼しくなることに根拠はあるのか。
ダンテが問うまでもなく、レディは口を開いた。
「下らないことを言ったら、また撃つわよ」
チャキッと金属音を鳴らせた銃に、ダンテは口を閉じた。
代わりに怖い話とやらを思い浮かべてみるが、全く思い浮かばなくて五秒で諦めた。
「帰ったぜ」
何も知らないネロが、丁度いい時に扉をくぐって入って来る。
何かあったのか、少しばかり青ざめている。
だが、レディがそんなことを気にするわけもない。
そもそも、そんなことを気遣ってくれるのはぐらいのものだが、彼女は今出かけている。
実の父親であるダンテも、お嬢ちゃんにふられたのか、ぐらいにしか思っていない。
「ねぇ、なんか涼しくなるような怖い話とかない?」
展開の読めない突然の問いかけに、ネロは面を喰らう。
だが、レディの言葉を反芻して、薄暗い笑みを浮かべた。
「怖い話、ね。あるぜ」
ただしと、言葉を続けながらネロはダンテを見る。
ダンテによく似たスカイブルーには、何処か憐れんだような色があった。
「あんたにとって、だろうけどな」
ネロの顔色が悪くなるのと反比例するように、レディの好奇心は膨らんでゆくのが目に見えるようだった。
ダンテも、挑発されたような気になって、レディと一緒にネロをせっつく。
「もったいぶってないで、早く話しなさいよ」
「そうだぜ坊や、行動が遅いと女に嫌がられるぞ」
そんな二人を交互に見て、ネロは薄く釣り上げた唇を開いた。
「少し前のことなんだけどな。
暑かったからシャワーを浴びようと思って一階に降りてきたんだ。
そしたら、そこに母さんがいて、本を読んでた。
俺は何を読んでるのかなって、ちょっと気になったんだ。
いつも読んでる様なクソ真面目な本じゃなかったのもあってさ。
そしたら、読んでたのは犬の飼い方の本だった。
最初は、母さん動物好きだからなーって思ってたんだけど、少しばかり様子が違った。
すげぇ真剣な顔で、ずっと同じページを見てんの。
で、何があるのかって気になって、覗き込んで見たわけよ。
そしたらさ、」
ネロは少し言葉を止めて、唇を湿らせた。
レディもダンテも、何故が読んでいる本が怖い話になるのかと真剣に聞いている。
やがて、ネロは再び話し始めた。
「犬のさ、去勢ってわかるか?
そのページをずっと見てるんだよ。
変だなって思ったんだけどさ、その時気づいたんだ。
机の上に本が何冊か乗ってて、それが中国の宦官とか宗教の仕来たりのやつとか、そういう人間を去勢するやつだって。
ちょっと俺がビビった時に、母さんが不意に顔を上げて聞いてきたんだ。
「ネロ、今ホーリーウォーター持ってるか」って。
「悪魔の血が流れてるから傷口がくっつくんだから、ホーリーウォーターで焼けばいいんだよな」って、その前に小さく呟いてたのを俺は忘れない」
段々オチが読めてくると同時にダンテの顔が青くなっていく。
つられる様に、会話と同時に恐怖も思い出しているのか、ネロの顔も青くなっていた。
「持ってなかったから俺が素直に言うと、「ちょっと出かけてくるな」って言って、閻魔刀を持って母さんは外に出た。
俺も慌てて追っていくと、怪しげな所に入って行って、一時間もしない内に母さんは出てきた。
そして、その足で、時空神像にレッドオーブを……」
ネロが最後まで言い切る前に、ダンテは立ち上がり、事務所から逃げ出した。
冗談ではない。
三十余年間暮らしてきた男としての自分に別れを告げてたまるか。
ダンテはトリックスターを駆使しながら走って行った。
「ったら、なんでそんな暴挙に……」
呆れ気味に呟いたのは事務所に残されたレディである。
どうせダンテがまた何かやらかしたのだろうと決めつけている。
十中八九は当たりなので問題はない。
「その、多分冷房費使い込まれたのとか、ベタベタしてくるのとか、溜め込んでたのがこの暑さで爆発したんだと思う」
据わり切ったアイスブルーの瞳を思い出し、ネロは背筋を震わせた。
その後、が帰ってきた時に、人間の解剖図が載った医学本を持っていたことが、彼女の本気を表しているようで、ネロはやはり怯えるしかなかった。
ダンテはその日は一日、帰って来なかった。