漆黒の天使

白い裸身を晒し、女は青い水の中に横たわっていた。
水を湛えたその場所には底がない。
深く、深く、どこまでも広がっている。
肩程までの白銀の髪が水に揺蕩い広がる。
閉じられた瞼はまるで現実を拒否しているかのごとく、目覚める気配を見せない。
青白い肌と相まって、死体と紛うほどだ。
だが彼女は生きていた。
死ぬことも意思を持つことも許されず、ただ生かされていた。
それを『生きている』と断言することができるかはわからない。
意思もなく命じられるままに敵を斬るだけの生が正しいのか、彼女にはそれを考える事さえも封じられているのだから。
《ネロ・アンジェラ》
冷たい深淵から響く声が、水面を揺らす。
長い睫毛に縁取られた瞼が、ぴくりと一度だけ震えた。
《戦え、そして殺すがいい》
与えられた命令はそれだけ。
だが傀儡である彼女にはそれで充分だった。
白い肌に青く光る文様が浮かび上がる。
それは彼女を縛り付ける枷に他ならない。
意志を、言葉を奪い取り、全てを彼の魔帝の意のままへと変える呪いだ。
彼女は静かに上体を起こした。
水が彼女を支えているかの様に、体は沈むことなく水から出る。
開かれた瞼の奥、漆黒の眼窩の中心にある鮮血の色に染まった瞳の中、爬虫類のように細長い瞳孔が蠢いていた。
彼女は立ち上がり、かつての従順な従者、魔帝の魔力によってその姿を歪められ変じた大剣を手に取る。
周囲の空気が揺らいだ。
闇が、渦巻く。
震える空気の中心、闇を凝縮した黒き鎧を身に纏った彼女は魔帝の忠実なる僕、『ネロ・アンジェラ』だった。

三度目の戦い、黒き鎧を纏った高位悪魔の頭を覆っていた兜はなく、白い面を晒していた。
今まで気がつかなかったわけではない。
どうしても、それを否定したい自分がいたのだ。
ダンテは愁嘆に呻いた。
見紛うはずもなかった。
例え美しかった薄氷の色が変わり果てようとも、高潔な魂がその身から姿を消そうとも。
魔力の気配すら以前とは違う姉に、ダンテは全てを悟った。
生きた人形となり果てた姉を操っているのは、体中を這う魔帝の魔力だ。
母の仇である悪魔は、姉であるさえも玩具として、ダンテと三度目の殺し合いを演じさせようとしている。
振りかぶられた大剣が、真っ直ぐにダンテの頭部を狙う。
見極め、横に転がって避けながら、変わってしまった姉をダンテは見つめる。
剣速が、遅い。
普通の悪魔に比べれば早すぎるほどであるが、昔の彼女ならば今の一振りの間に五回は斬りつけている。
戦い方すら以前とは違う。
虚ろな瞳は敵であるダンテすら見ていない。
意思もなく意味もなく、命じられるままに戦い続ける美しい操り人形。
「姉貴!」
呼びかけに返されるのは剣戟のみ。
防戦一方では力で押し負けてしまう。
他の力に動かされているせいか、以前よりもずっと力が強い。
かといって、もう一度斬れるのかと言ったらそれは別だ。
死にたくはない、死ぬことはできない。
母の仇を討つためにも、事務所で待つ息子のためにも、たとえ相手が最愛の姉であろうとも死んでやることはできないのだ。
それが、あるいは九年前のあの塔の上であったのならば、彼女の意志によって殺されるならばそれもよかったかもしれない。
何も知らず、何も大切な物などなかったあの頃ならば、彼女の為に死ぬこともできた。
だが、今は、姉の為には死ねない。
姉の為に生きることを決めた今は。
「ハッ!」
大振りな剣戟は隙が出来やすい。
攻撃を横転して避け、そのまま背後に回って斬りつける。
衝撃で鎧に覆われた体が揺れた。
三撃ほど加えたところで、大剣が横薙ぎに振り回される。
寸分違わず首を狙った攻撃をしゃがんで避けると、そこに『ネロ・アンジェラ』の姿はない。
ぶんっ、という虫の羽音にも似た音に、ダンテは上を仰ぎ見た。
宙に浮いた彼女の周りには、魔力で形成された無数の青い剣が浮かんでいる。
「おいおい、マジかよ」
幻影剣、かつてが遠距離攻撃に好んで使っていたものだ。
姉を思わせる攻撃に、ダンテは目を細めた。
もしかしたら、まだ姉の意識は消えていないのかもしれない。
上手くすれば、取り戻せる可能性だってある。
それは一縷の希望であり、願いであった。
ぶんっと、再び羽音に似た音が聞こえたかと思うと、青い剣がダンテを円状に取り囲んでいた。
咄嗟に跳ぶと、さっきまでダンテがいた空間を斬り裂きながら幻影剣が飛び交う。
石の床に突き刺さったそれが澄んだ音を立てて割れた。
と思うと、いつの間に床に足を付けていたのか『ネロ・アンジェラ』がダンテに斬りかかる。
着地間際では避けることも剣で受けることもできない。
大剣は横薙ぎにわき腹の肉を抉った。
傷口から滴る血を、『ネロ・アンジェラ』は虚ろな瞳で見つめる。
「 」
声はなかった。
だが彼女が小さく唇を動かしたのを、ダンテは見ていた。
取り戻せる。
ダンテはアラストルで『ネロ・アンジェラ』に斬りつけた。
「姉貴!」
聞こえなくてもいい。
ダンテは『ネロ・アンジェラ』の奥で眠らされている姉に呼びかける。
意思のない面に何度でも、剣戟と共に声を叩きつける。
受け止められた刃が火花を散らした。
「姉貴!」
凍りついたような顔は僅かにも表情を見せない。
こんなにも近くにいるのに、姉が遠い。
九年間、ダンテは待っていた。
不器用にネロを育て、隠された日記からの想いを知り、魔界への道を探しながらも、彼はいつか姉が帰る日を待っていたのだ。
あからさまに怪しいトリッシュの依頼に応じたのも、魔界へ消えた姉の手がかりがあるかもしれないという思いが少しでもあったからだ。
まさかこうして、再び敵として相見えることになるとは思いもしなかったが。
まだ伝えていない言葉がある。
聞きたいこともある。
話したいことも、謝らなければならないことも、怒りたいことも、沢山あった。
だから、ダンテは必ずを取り戻すと決めていた。
共に帰る、そのために。
襲い来る大剣をアラストルで叩く。
剣の軌道が無理に変えられて『ネロ・アンジェラ』がよろけた。
!」
鎧に覆われた胴体をアラストルが貫いた。
背から赤く濡れた刃が突き出る。
ダンテは深く、剣の柄までそのまま押し込めた。
「……ぁ」
小さな声が、聞こえた気がした。
ダンテが身を引くと、同時にアラストルもずるりと水音を立てて引きずり出される。
血に塗れた刃が窓の外の稲光を反射させ、ぬらりと妖しく光った。
『ネロ・アンジェラ』は刺された腹を両手で押さえ数歩後ずさった。
体中で青光りする文様が点滅を繰り返している。
彼女の全身を巡る魔帝の魔力が乱れているようだ。
今しかない。
封じられたの意識を魔帝から、『ネロ・アンジェラ』から解放するには今この瞬間しかないのだ。
ダンテは直感に従い、アラストルを放り捨ててその両肩を掴んだ。
強敵を前に武器を捨てるのは自殺行為だ。
だが今はそんな考えなどダンテの頭にはない。
ただを解放し、取り戻すことだけが彼の頭を満たしていた。
取り戻せなかったら、なんて考えない。
必ず取り戻すこと以外、彼は自分に許していないのだ。
「姉貴」
呼びかける声に応じる様に、光の点滅が間隔を短くしていく。
色は転じないまでも、一瞬だけ瞳の焦点が合った。
すぐに虚ろに変わったが、薄っすらと見えた正気の色にダンテはさらに呼びかける。
「姉貴、姉貴、姉貴、…………」
目が確かにダンテを見た。
真っ直ぐに射抜くように、何処か幼い視線が、ダンテを視認した。
泣く寸前の子どもの様な瞳。
色を無くした唇が、何か言葉を綴ろうと戦慄く。
ダンテは感情の全てを込めて、彼女の名を呼んだ。

……」

変化は、劇的であった。
彼女はダンテの手を振り払い、後ろへと下がる。
全身の文様は眩しいほどに光り、を未だ『ネロ・アンジェラ』へと縛りつけようとしている。
「ぁ、」
バローダの意識が魔帝の呪縛から解き放たれようともがく。
二つの意思が、一つの体の主権を争っているのだ。
「ぁぁあ……」
それはどれほどの苦痛であろうか。
十年近くも押し込められていた精神が、それを押さえ付けていた者に勝つには、どれだけの力が必要であったろうか。
彼女は頭を抱えて、苦痛の叫びを上げた。
「っああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
悲鳴が空気を斬り裂き、ダンテの脳を悲痛に満たす。
伸ばした手は、彼女を中心に展開された青い魔力の障壁に弾かれた。
見開かれた目が、鮮血の赤から冷たい青に染まっていく。
時折赤く光りながらも、瞳は元の色を取り戻し始めていた。
『ネロ・アンジェラ』が、へと戻っていく。
描かれた文様は末端から光を無くし、黒い線へと変じながら頭部へと向かう。
薄氷の瞳が、ダンテを捉えた。
「……ダ……ンテ………………?」
金属の割れるような耳障りな音が部屋中に響いた。
魔力が弾けて満ちる。
魔力の障壁も鎧も大剣も、体中に纏わりついていた文様さえ、全てが砕け散った。
残されたのは女の体、傍らには折れた刀が一振り。
ぐったりと石の床にその身を投げ出している。
背筋が、凍りついた。
ダンテはすぐに倒れたに駆け寄る。
青白かった頬は薄っすらと赤みを差し、唇は艶やかな桜色になっている。
すぐ傍にしゃがみ込み抱き上げて、ダンテは指をそっと頸動脈に当てた。
トクンットクンッと、指先から感じる温かな肌は確かに鼓動を刻んでいる。
ようやく、ダンテは安堵のため息を吐きだした。
生きている。
体から文様が消えたということは、ムンドゥスの支配下から逃れたということだろう。
歓喜のあまり泣き出しそうになりながら、両腕で細い肢体を抱きしめた。
もう二度と離すまいと、強く、強く。
……!」
彼はようやく、『世界』を取り戻した。