失われた言葉
数分もせずには目を覚ました。
白い相貌にアイスブルーが二つ並んでいる。
困惑気味に唇を開閉するを、ダンテはもう一度抱きしめた。
「よかった……、本当に、本物の姉貴だ……」
強く抱きしめられ混乱しながらも、白い二本の腕はそっと、子どものように縋って来るダンテの背に回された。
以前よりも逞しくなった背を、優しく労わる様に。
「 」
瞬間、は戦慄した。
ダンテと、呼ぼうとした口からは空気の塊しか出なかった。
何度も、何度も、声を出そうともがくが、開かれた唇から出るのは音のない空気ばかり。
背筋が、凍りつく。
抱きしめている体の異様な強張りに、ダンテは腕の力を緩めて姉の顔を見た。
「どうかしたのか?」
ふるふると頭を振りながらは両手で喉を押さえる。
唇は動いても、そこからは何の言葉も発せられない。
ダンテは首を傾げて、苦しげに凍りついた顔を窺う。
目覚めてから一度も声を聞いていないことに、彼はその時ようやく気付いた。
「姉貴?」
細い指が、白い首に食い込む。
は自らの喉を掻き毟らんばかりの力を手に込めている。
慌ててその自傷に似た行為を止めさせようとダンテが手を伸ばした。
細い手を無理矢理首から外し、開かせる。
悲しみに彩られた瞳に、まさかと思いながらも、ダンテはその可能性を言葉にした。
「声が……出ない、のか?」
こくりと、頷く動作は重々しく、二人の背に圧し掛かった。
解放されたと、思っていたのに。
何がいけなかったのだろうか。
どうすれば、姉は、は完全に魔帝の呪縛から解き放たれるのか。
ダンテは、かつて姉に斬られた掌を見つめる。
あの時、この手を離さなければ。
いや、それよりももっと前、彼女をあの時無理矢理に……。
過去は変えられない。
だが、悔まずにはいられないこともある。
ネロが生まれたことを後悔している訳ではないが、もっと上手くやる道があったのではないかと、ダンテは思わずにはいられなかった。
もっとずっと一緒に、いられたはずだったのではないか。
ネロとと三人で、人とは違ってもそれなりに幸せに暮らせたのではないか、と。
ぱしんっと、下を向いていたダンテの頭が揺れる。
視線を上げた先には右手を振り下ろした格好のがいた。
痛みはなくとも衝撃はあった。
右手を振り下ろした先にはダンテの頭があったのだろう。
目には怒りと、馬鹿にしたような色があった。
声はなくとも伝わるものがある。
彼女は、ダンテの悔恨を見てとった。
何となくではあるが、ダンテの性情から理解できる。
だが、それは彼が背負うべきものではない。
全ては彼女の起こしたことである。
テメンニグルを建てたのも、魔界に降り立ったのも。
そして、魔帝に自由を奪われたのは彼女の力が至らなかったせいだ。
少なくとも、自身はそう考えている。
これはの悔恨である。
ダンテが背負うべきものではなく、勝手に背負っていいものでもない。
姉としてのプライドだってあるのだ。
弟に守られ背負われて、何が姉か。
今回助け出された時点で、手を掛けさせたと思う所とてあるというのに。
は呆然としているダンテにため息をついて、右手を床に転がるものに伸ばした。
どこまでもついてきてくれた従者である刀は無残にも半ばで折れてしまっている。
柄の方を握りしめ、思念で呼びかけた。
もう随分と、彼の声も聞いていない。
『閻魔刀』
呼びかけは空気を震わせずに、そのまま直接魔具へと伝わる。
抑えきれない歓喜に、の手にある片割れが震えた。
『わがあるじ』
カタカタと震えながら、折れた切っ先が宙に浮き上がる。
が掌を開くと、柄も共に浮き上がった。
光を発しながら、二つに折れた刀が宙に円を描くように回る。
二つはやがて互いに近づき、触れたと思った瞬間に眩い光を放った。
反射的に閉じた目を開いた時には、の目の前に一本の刀が横たわっていた。
が伸ばした手で触れる前に、刀の方から収まりに飛ぶ。
手の中に馴染む、懐かしい姿。
歪められてもなお、たった一人に仕え続けた献身な従者。
『主、主、主! 嗚呼、あの憎き魔帝から、ムンドゥスから解放されなさったのですね様!! 我が唯一無二、絶対至上の主よ!!』
歓喜と興奮に、いつもは言葉少なな閻魔刀がひどく饒舌であることには笑った。
そのまま閻魔刀を二、三度振る。
空気を斬る冴えた音が耳に心地よい。
十年近く、他者に動かされる体をは見ていた。
体の外側、何処か遠い所で。
そこから呼び起こしてくれたのはダンテと、この閻魔刀と、もうひとつ。
は閻魔刀をおもむろに自分の腹に刺した。
「おい、何やってんだよ!」
ダンテの怒鳴る声に構わず、そのまま刀を横に引く。
鋭い切っ先は滑らかに、腹の肉を斬り裂いた。
血に塗れながらピンクの筋肉と黄色い脂肪が見える傷口に、は迷わず手を突っ込む。
「――っ」
痛みに悶えながらも手で腹の中を探ってゆく。
あまりの光景にダンテも言葉が出なかった。
がしばらくそのまま手を動かしていると、硬いものが指先に触れる。
手繰り寄せ形を確認してから、握りしめたそれごと腹から手を抜き出した。
「……っ馬鹿やろ! 何無茶してんだ!!」
正気に戻ったダンテが怒鳴りながらの、先ほどまで体内にあった血塗れの手を取る。
治る傷であるとはいえ、痛覚はある。
只の斬った傷ならまだしも、そこから手を入れるとは、相当な苦痛であっただろうことは想像に難くない。
激昂するダンテに向かってはそっと、血塗れの手を開いた。
赤く、何かが煌めく。
「アミュレット……?」
は静かに頷いた。
ムンドゥスに奪われ壊されることを恐れて、倒されたその時に体内に隠したものだ。
意識を失うその前に、傷口に捻じ込むことによって。
恐らくは、このアミュレットもの意識を守るのに一役買ったのだろう。
もちろん、としての意識を取り戻すためにも。
「無茶、しやがって……」
アミュレットごとバローダの手を両手に包み額に当てる。
血で汚れると慌てている姉のなんと愛おしいことか。
声が出なくとも、彼女はである。
スパーダとエヴァの娘で、ネロの母親で、ダンテの双子の姉で、最愛の女性であることには何ら変わりない。
「なあ、今まで言いたいことがあったんだ」
行き先のない想いがあった。
行く宛てのない言葉があった。
伝えたかった愛があった。
あの時、浅はかにも力づくで伝えた想いを、姉はちゃんと受け取っていてくれた。
受け入れて、くれていた。
だからこそ、もう一度伝えたい。
「愛してる、」
今さら過ぎる言葉であった。
それはダンテもわかっているのだ。
「ごめんな、遅くなって」
もっとちゃんと話し合っていれば、違う未来を歩めたのかもしれない。
それでも、やっと手に入れた今を幸せと思う自分がいる。
言葉はなかった。
ただ、は目の端から透明な滴を零しながらも、笑っていた。
幸せそうに、穏やかに、全てを許すように。
だからダンテは、泣きそうになりながらも、笑った。
が言葉を無くしたのならば、その分自分が愛を囁けばいい。
きっと彼女はいつだって笑い返してくれるだろう。
この手を離さずにいる限りは。
この先、彼女と自分が、再び分かたれる日が来ないようにと、祈りの様にダンテは自らに誓う。
祝福するように二つのアミュレットが柔らかく輝いた。