月下の獣
ネロは後ろにダンテを連れて、森の中をかき分ける様に進む。
ネロが通っている場所は一見獣道のようだが、よく観察すれば地面が僅かに馴らされていることがわかるだろう。
同じ道は一カ月までしか使うことを許されなかった。
この道も使い始めてからそこそこ経つので、もうすぐ新しい道を探さなければならない。
獣や悪魔が家に来るのを防ぐため張られた結界に綻びを作らない為には、長い間同じ道を通らない方がよいのだとはネロに語った。
昔はわからなかったが、今のネロには結界の存在を感じることができるので、同じ道を使っているとそこから揺らぎ始めるのがわかる。
恐らく半分とはいえ悪魔の血を持つ者が出入りすることで、結界が弱まりやすくなるのだろう。
「辺鄙な所に住んでんな」
背後から聞こえる茶化すような言葉をネロは黙殺した。
母の言いつけを破ったことに対する罪悪感がネロの口を閉ざしている。
今さらながらに、背後を悠々と着いてくる男を追い返した方がいいのではないかとさえ思い始めていた。
ざらりと背中を粟立たせる違和感があった。
の弟だと言い切る男の瞳に、暗い愉悦にも似た何かをネロは見取っていた。
会わせようと思ったのは、他でもない母のためであったが、好奇心がなかったとは言い切れない。
外見は何処か母に似ているのに、ダンテという男は全くそれ以外と類似性が見られなかった。
少なくともネロにはわからなかった。
だから、気になったのだ。
正反対であるからこそ、この二人は上手くやれそうだと思ったのだ。
喧嘩をしても、どちらかが妥協するか非を認めるか、きっと仲睦まじく暮らしていけるだろう。
頼り頼られ、守り守られ、ネロが想像できたのは羨ましいほど理想的な美しい姉弟の姿だった。
だが、実際はどうだろう。
姉は人目を避ける様に森奥に暮らし、弟は姉の住処さえ知らずにいた。
その事実に、ネロは唐突に寒気を感じた。
結界は目の前に迫っている。
入ってしまったら、母を探すのはとても容易いだろう。
何せ外には気配すら漏らさぬのに対し、結界の中はの魔力で満ちている。
最も魔力の強い場所を目指せば、すぐにの元へと辿り着けるのだ。
「なあ……」
ネロは思いついてしまった。
気配一つ洩らさない結界を張り続けるのは相当な労力が必要とされるだろう。
逆に言えば、それだけ二人が狙われやすいという意味でもある。
なるほど、半魔でありデビルハンターである二人を悪魔が狙うのは道理であろう。
しかしネロが幼い頃ならばまだしも、力を付けた今、そこまで強力な結界を張り続ける必要があるだろうか。
もちろん用心というものはするに越したことはない。
特には魔帝と呼ばれる大悪魔にも少なからず因縁があるらしいので、備えることは無駄ではないだろう。
それが真実であるならば。
「もう遅いしさ、母さんも寝てるかもしれない」
全てが偽りであるとは思わない。
あまりにも強靭すぎる剣の腕、結界を張り続けられる魔力、そして何よりも己の異端の右腕がの話を裏付けていた。
ただ、ほんの少し、隠されている部分があるかもしれないとネロは思い至ったのだ。
たとえば、己の出生について。
いつかは話すという言葉を信じている。
信じているからこそ、考えてしまうことがある。
母の言葉の逆を返せば、今話すことができないような相手が、自分の父親なのではないかと。
「だからさ……」
その父親から逃げてきたとすれば。
結界は悪魔避けと共に、の姿を完全に消して見つからないようにするために張られていたのではないか。
は確かにネロの父親である男を愛している。
それはネロも知っていた。
だから逃げたという可能性はないだろうと考えていた。
だが、ネロはダンテを見ていて、ふと思ってしまったのだ。
自分の瞳の色は母でなくこの男に似ている、と。
それはとてもおぞましい想像であった。
およそネロの常識の範疇にはないものだ。
当然即座に否定しようとした。
否定して、なかったことにしようとしたのだ。
ネロの頭によぎったのはダンテの瞳、暗く獰猛な青、それさえなければきっと彼は自分の考えを馬鹿馬鹿しいと捨て去ることができた。
と名を呼んだ時の焦がれるような熱を孕んだ瞳、ネロがの息子であると知った時の値踏みするような視線、今なお背中に突き刺さる気配。
他の考えの何よりも、辻褄が合ってしまうのだ。
ただの考えすぎだと、妄想だと、言いきれない程の整合性。
ネロはダンテを連れて来たことを後悔し始めていた。
少なくとも独断で連れて来るべきではなかったかもしれないと思い始めている。
「今日はここで帰ってくれないか?」
ニヤリと、ダンテは獣の笑みを浮かべた。
自信に満ち溢れているどこまでも傲慢なほどの笑みは、ネロに自身の想像を肯定させるだけの力を持っていた。
背中に氷が伝うような感覚がする。
青い瞳が淀んだ光を放っていた。
「面白いことを言うんだな、坊やは」
ゆっくりと腕が伸ばされるのを、ネロはまるで画面の向こうを覗き込んでいるような感覚で見ていた。
動かなければいけないと焦る気持ちとは裏腹に、冷え切った頭は体の動かし方さえも忘れてしまったようだ。
束縛されているわけでもないのに、指さえも麻痺して動かない。
ネロは動けと体に命じる。
動け、動け、動け!
骨ばった大きな手が首に掛かった時に、ようやく微かに指先が動いた。
勢いのまま銃へと伸ばした手は、音もなく静かな動作で遮られた。
「俺はもう十八年待ったさ」
だからもう、待ってなんかやらない。
その囁きは愛情に満ち満ちているのに、ネロは震えた。
愛情の重さに、濃密さに、底が知れない感情に、震えることしかできなかった。
手がネロの頸動脈を押さえる。
気管が締められる気配はないので、殺すつもりはないのだろう。
とりあえず、今この時は。
白くフェードアウトしてしまう視界の端に、玲瓏な月を見た気がした。
気絶しているネロを抱えたダンテの首に、後ろから白銀の刃が突きつけられる。
「その手を離せ」
「久しぶりだな、会いたかったぜ」
「お前がそこまで愚かだとは思ってもいなかった」
「元気にしてたか?」
「何のためにここまで来た」
「相変らず閻魔刀を使ってるのか。妬けるな」
噛み合わないまま会話は平行線を辿る。
苛立ちを飲み込むためには深く息を吸った。
しゃがみ込んでいるダンテと、その首に刀を突き付けているでは、彼女の方が優位に見えるかもしれない。
しかし追い詰められているのは、紛れもなくの方だった。
ダンテの手の中には、ネロの首がある。
少しでも刀を動かせば、彼は容赦なくまだ幼さの残る青年の首を握りつぶすだろう。
彼が実の息子だと感づいていながらも、それは良心の呵責すらなくいとも容易く行われる。
ネロは人間の部分をより多く受け継いで産まれた。
へし折られた首を再生することは、恐らく不可能だろう。
「もう一度言う、その手を離せ」
「あんたが刀を下ろせばな」
漸くまともに会話が成り立った。
は言葉の通り閻魔刀の切っ先を地面に向ける。
ダンテにわざわざここでネロを殺すメリットもないだろうと判断したからだ。
ネロには人質の価値がある。
そこまで考えて、は苦々しい気持ちが込み上げるのを感じた。
ダンテにとっては、たとえ実の息子であっても、ネロは人質程度の認識しかないということだ。
しかも、それをは理解している。
希望も夢も僅かな望みすらなく、当然のように理解し、わかってしまっている。
くるりと振り向いたダンテは屈託のない子どものように笑った。
「やっぱりあんたは月の下が一番映える」
あの夜もこんな満月だったなぁ。
嘯く声がには何処か遠く聞こえる。
絡め取られた指先の体温が、幸福の終焉を告げていた。