ウェディングマーチはほど遠く

今日も今日とて仕事もせずにソファで横になっているダンテを横目に、は依頼の報告書をまとめていた。
便利屋という表向きの職業上、物によっては紙に報告せねばならないこともあるのが不便な所だ。
は白い紙の上に万年筆を走らせる。
この万年筆はいつぞやダンテがに送った物だ。
いつも迷惑をかけてるからと、万年筆の箱を差し出してはにかむダンテは姉の欲目からすれば大層可愛らしかったが、そういう気遣いが出来るならば働けと提言したい今日この頃である。
ー」
炭酸の抜けたコーラの様な、まるっきり気の抜けた声で寝転がったままのダンテが姉を呼んだ。
昼間からソファでごろごろとしているその姿は、到底一児の父親には見えない。
声は聞こえたろうに頭も上げず書類を書き綴るとはあまりにも対照的な姿だ。
返事がなくとも姉がちゃんと聞いていることをダンテは知っているので、気にせずに言葉を続ける。
「結婚したい」
かりかりと微かに聞こえていたペン先が紙を擦る音が止んだ。
ダンテはソファの上でうつ伏せに寝転んだまま、机の上で作業をしていたを見上げる。
手は止まっているが文書作成自体が終わったわけではないようで、ペン先は紙の上に留まっていた。
そのままでは紙にインクが染みてしまうだろうに。
顔を伏せたままなので、ダンテの位置からではの顔は影になっていて見えない。
ダンテは自分が原因で姉が固まっていることをわかっていて、ここぞとばかりにその姿を目に焼き付けている。
暫し顔を伏せたまま固まっていたは、やがて万年筆を机に置いた。
乱暴な動作ではないのに硬質な音がやけに響いた。
僅かに上を向いたの薄氷色の瞳は、感情の一欠片も映さぬまま虚ろな光を湛えている。
「そうか……」
は重心を後ろに移し、椅子の背もたれに思い切り体重を掛ける。
丈夫さ重視で購入した椅子は軋むこともなく一人分の体重をしっかりと支える。
唇は一文字に固く結ばれ、色を無くしている。
古いファンの回る天井を通して何処を見ているのか、上を向いたまま決してダンテの方に視線をやろうとしない。
の反応に、流石のダンテも何かがおかしいと思い始めた。
自分の言葉を補足しようと口を開きかけるが、がダンテを正面から視界に捉えたことによって止まる。
固く結ばれていた唇は綻び、左右対称の美しい形に引き上げられている。
眉が微かに下がっているのをダンテは見逃さなかった。
「相手は何処の誰かは知らんが、幸せになれよ」
完全に誤解されている。
ダンテは慌てて、まだ続くであろうの言葉を遮った。
「ちげーよ! 俺は姉貴と結婚したいなーって!」
「姉弟で結婚ができるはずないだろう?」
誤魔化さなくてもいいと、儚い笑みを浮かべる姉にダンテは頭を抱える。
自分で破滅フラグを立ててしまった。
恋人になるのは難しいのに、どうしてこんなにも離別への道は生じやすいのか。
悩むダンテはそろそろ自業自得という言葉を学習すべきである。
「相手はネロの母親か? 家族はちゃんと大切にするんだぞ」
の中で話が進んでいく。
これはやばい。
なまじ他の女との間にネロが産まれているだけに、信用度は殆どないに等しいのだ。
そう思っているのはダンテだけで、ダンテの女性関係に対するの信用度は悪い方に振り切れてマイナスかもしれないが。
女性の心は計り知れない。
ましてや相手が最愛の人ならば尚更だ。
そんな最愛の恋人である姉は聖母のような笑みでダンテを断ずる。
「なんだったら私がここを出ていくから、心配しなくても大丈夫だぞ」
ふと、ダンテは姉の顔をまじまじと見つめる。
困った様に下げられた柳眉、唇には完璧な笑みが刻まれ、瞳には寂しさと悲しみが同居している。
だが僅かな違和感。
完璧すぎるが故に生じたその感覚に、ダンテは自棄っぱちな笑みを浮かべた。
「姉貴……わかっててやってんな?」
疑問の形を取ってはいるが、断定的な響きを持っていた。
笑みを消し、無関心な表情で書類の処理に戻ろうとするは、ダンテの予測が正しかったことを暗に示している。
彼女はダンテの言葉の意味を正確に理解したうえで、からかっていたのだ。
恨みがましい視線に堪える風でもなく、は机の上に転がった万年筆を手に取り書類を綴る。
「偶には」
書類から目を離さないまま、は口を動かす。
呟くにしては大きい声量に、自分に言っているのだとダンテは耳を傾けた。
「私がからかっても罰は当たらないだろう?」
見なければよかったとダンテは後悔した。
にぃっと唇の両端が凶悪に吊り上がっている。
背筋の温度が一気に下がり、氷が滑り落ちてゆくようだ。
いつもとは違う嗜虐的な笑い方をするは残酷なまでに美しく、見る者の瞳を惹きつけ魅了する。
まさしく魔性の笑みだった。
こういう時ダンテはが自分の双子の姉で、魔剣士スパーダの娘であることを強く実感させられる。
優しく時には厳しく、まるで母親の様な空気を持つ彼女も、半分とはいえ大悪魔の血を引き継ぐ者なのだ。
ダンテは、が穏やかなだけの女の筈がないことはよくわかっていたつもりだったが、本当にわかったつもりになっていただけらしい。
「ま、今度は黙って給料三ヵ月分でも寄越すんだな」
まるで渡せば受け取ってくれるような口ぶり。
本当に渡したらどんな反応が返ってくるのだろうか。
今の流れでは、少なくとも簡単に左手の薬指には嵌めてくれなさそうだ。
一筋縄ではいかない姉に、ダンテは今度こそ降参した。