幸福恐怖症

今度こそ、伸ばした手が届くように。
ダンテはいつまでも願い続けている。
大切なモノが失われないように、この手からすり抜けていかないようにと。
最初は父で、その次は母、三度目が姉だった。
その喪失が最後である様に、ダンテは剣を握る。
祈るだけでは足りなかった。
願うだけでは叶わなかった。
想いだけでは儚すぎた。
に先導されながらダンテは、父の名を冠した剣にそっと触れた。
ダンテとのアミュレットが融合し一つのアミュレットへと変化したと同時に、フォースエッジが真の姿を現したものだ。
かつてムンドゥスを倒さんとこの力を欲したも、こんな気持ちだったのだろうか。
もう失いたくなくて、力を欲したのだろうか。
先を行くはサイズの合わないダンテの上着のみを羽織っている。
今から服を取りに行く彼女にダンテが献上したものだが、後ろだけが長い独特の服では丈の長さの問題でどうにも体を隠し切れていない。
ついでに、約十年ほど見ない内にいつの間にか育ちに育った胸も収まりきらずに服からこぼれ掛けている。
掌にすっぽり収まるサイズが爆乳に変わっていたのは中々に衝撃的なものだった。
前から見るとかなり際どい恰好になるので、はダンテの前を歩くと譲らなかった。
ぶかぶかの袖から出る肌は病的なまでに青白く、ダンテの中の漠然とした不安を煽る。
白すぎる腕と上着の黒が忌々しいコントラストとなって目に突き刺さる。
「なぁ」
すっと背筋の伸びた背中に声を掛ける。
銀の髪が揺れて、足は止めないまでも僅かには振り向いた。
氷の様な瞳が掠める様にダンテを見る。
それだけでダンテは安堵を感じてしまうのだから、全く安上がりだと内心自嘲する。
それを表に出すこともなく、ダンテは手を伸ばしての閻魔刀を握る手に重ねた。
細い肩が震え、咎めるような視線が向けられる。
だが手を振りほどかれないことにダンテが安心したことを、はどれほど知っているだろうか。
いや、知らなくてもいい。
傷の痛みも喪失の悼みも、自分さえ覚えていればいいのだとダンテは思う。
強い視線も気にすることなく嬉しそうに笑う弟に、折れたのは当然ながらの方だった。
手から離れた閻魔刀が床に付く前に虚空へ溶ける。
前を向いて足を速める姉にダンテは笑った。
繋ぎ直された手は、互いを離さないように指を絡め合っていた。
「あのさ、姉貴」
今度は何だと剣呑な視線が返事代わりに向けられる。
数歩先を行く彼女は声が出ない代わりに、視線が雄弁に感情を伝えてくる。
ただダンテがの瞳から感情を見出そうとしているだけかもしれないが、それでも構わない。
今後いくらでも表情を見ることは出来るのだから。
「ムンドゥス倒して帰ったら、また指輪嵌めてくれるか?」
絡めていた指を少しだけほどいて、薬指の根元をなぞる。
この指を飾る銀の輝きはない。
が当時赤ん坊だったネロに持たせて、そのまま今もネロが鎖に通して首にかけている。
ダンテもわざわざ息子からそれを取り上げるつもりはなかった。
ネロにとっては数少ない母親の思い出であり、遺品とも呼べるものだったのだ。
謂わばダンテにとってのアミュレットの様な存在である。
取り上げる方が酷というものだ。
故にダンテは新しい指輪を贈ろうと思っていた。
今にして思えば、以前に贈った指輪はダンテの執着と一方的な愛情とも呼べぬ独占欲の現れだった。
そんな代物を一年以上も所持していてくれた姉には、何処までも行っても頭が上がらない。
だが今度は違う。
一方的な想いでなく、同意を以って指輪を贈りたいのだ。
一つ願いが叶えば人間とは貪欲になるもので、ずっと傍にいると形に残したいと思うのだ。
契約という形で縛ってしまいたくなる。
自分のモノなのだということを、指輪という形で表したいと思ってしまう。
もちろん、指輪はあくまでの同意が得られたらの話だ。
一方的な感情は最悪の形で相手も自分も傷つけることになる。
四度目の喪失は、もう耐えられそうにない。
返事を待つダンテの心臓が早鐘を打つ。
こんなに緊張したのはいつぶりだろうかと、平静を装うために過去を振り返ってみると、ネロに会った時と、テメンニグルで姉と対峙した時ぐらいしか思いつかなかった。
本当に中心に世界が回っているのだと、ダンテは口の端を上げる。
悪い気分ではなかった。
「どうだ?」
手を強く握られる。
細い指はその繊細な見た目に反して驚くほど力強い。
恐らくはムンドゥスの魔力が体にまだ残っていることの弊害だろう。
はもう完全に悪魔なのだろうか、それとも未だ半人半魔なのだろうか。
示すものはなく、確かめる術もまた存在しない。
どちらであっても愛しきる自信はあったが、悪魔となってしまっていたら少しだけ寂しい気がする。
少しの間を置いた後、は前を向いたまま首を上下に振った。
再び左薬指に指輪を嵌める意味を知っていてなお、は縛られることを許容した。
彼女にはわかっているのだ。
むしろわからない筈がなかった。
一度はダンテに縛られることを受け入れていたが、その意味に気付かぬ筈がない。
そして、指輪を贈る前に自身に尋ねてきたダンテの変化にも。
姉が受け入れたのは愛情だと思いたい自分がいて、それを確かめることを恐れている自分がいる。
確かめるまでもなくネロと残された指輪が、何処までもダンテだけを愛していたの心の現れだろうに。
わかっていても、わかっているつもりになっているのかもしれない。
ダンテの背に寒気が走る。
傍にいてくれたらいい、一緒に歩いてくれたらいい。
でも、愛でないのならば、それはあまりにも悲しい。
彼女は全てを赦して受け入れてはくれたけれど、どんな感情に起因するものかは自身しか知らないのだ。
伝える言葉は、もうないのだから。
思考が暗く淀んでゆく。
こんなにも近くに、待ち望んだ距離にがいるのに、心だけが遠すぎる。
繋いだ手は温かいのに、高揚していたはずのダンテの心は少しずつ冷えていった。
不意にが下ろしたままだった右手を浮かせて、宙に横線を描く。
何をしているのかダンテには見当もつかない。
だが歩く速度を変えぬまま、は一頻り何かを調べる様に宙に線を描く。
縦に、横に、斜めに、引かれた軌道には当然何も残っていない。
彼女がなにやら納得したように頷いたのを皮切りに、ダンテは問いかける。
「何やってんだ?」
声に出してからダンテは気付いた。
書く物が身近にない現状では、に答える術がない。
意思疎通もままならないのか。
お前が悲しむべきことではないと先にに殴られたが、それでも声が聞こえないことに一抹の寂しさを覚える。
自然と足取りが重くなりに引っ張られる形で歩いていたダンテは、前にいる姉が止まったと同時に足を止める。
にやりと彼女は笑って、指を横に引いた。
何も残らない筈の宙空に浮かぶのは青い光を伴った魔力の塊だ。
は幻影剣としてこれを遠方の攻撃手段に使っている。
しかし今ダンテの前に飛んできて止まった物は剣の形ではなく、文字を象っていた。
【これで会話できるだろう?】
読んだ側から音を立てて青い魔力の結晶が割れてゆく。
呆然としたダンテの正面で振り返ったは悪戯っぽく笑っていた。
【声がなくても、いくらだって言葉を伝える方法はある】
細い指先から生み出されるきらきらとした言葉は、優しくダンテの前に並べられる。
半魔であるからこそ声を失い、半魔であるからこそ声なき言葉を持つとはなんという皮肉か。
が指で線を描く度に、新しく言葉が生まれる。
彼女の意思をダンテに伝える、ただそれだけのために。
【たとえば筆記用具がないここでもな】
ぱちりとウィンクが飛んだ。
落ち込んでいるダンテにがわざと明るく振舞っているのはわかっていたが、珍しい動作にふっと笑みがこぼれる。
自覚もあるのだろう、笑っているダンテを見ては困ったように、それから楽しそうに笑った。
あまりにも楽しそうに笑うので、ダンテも更に笑みを深めた。
――今なら聞ける
ダンテの脳裏をよぎったのは先ほどまで自分の中でわだかまっていた疑問だ。
は果たしてダンテを愛しているのか。
その不安をなくすためには当然ながらの言葉で表してもらう他ない。
それ以外の誰が何を言っても気休めにもならないだろう。
想いを確かめるのは恐ろしい。
けれども、ダンテはそれ以上に喪失が怖かった。
すれ違い、この手を離されるのはもうこりごりだった。
ダンテは真っ直ぐ伸びた背中に迷いを打ち明けた。
やがて返ってきたのは青い文字と小さなため息だった。
【そんなことで悩んでたのか。だから馬鹿なんだお前は】
現れた文字の端々に呆れた色が滲んでいる。
ひゅんと横薙ぎにされた指から文字が溢れだしてダンテに当たりそうな勢いで飛来する。
【愛してるに決まっているだろう、この馬鹿が。疑うなよ】
何を今さらと言わんばかりの呆れ顔。
それさえも愛おしく感じられるのだからもう病気だ。
文字を何度も目でなぞりながら、妙な所で冷静なダンテが考える。
何でもないことのように返された言葉はダンテが望んでいたそのもので。
じわじわと体中に巡るのは感動なのか何なのか、よくわからない。
ただ、端から消え始めた言葉をそのまま飲み込んでしまいたい衝動に駆られた。
【でもお前は馬鹿だから忘れるかもしれないな】
「ひっでぇな。流石に忘れたりなんかしねーよ」
完全に否定することはできない。
のこととなるといつものペースでいられない自分をダンテは自覚している。
彼女のことだけは冷静になれない。
そのことは当の昔に諦めていた。
忘れることはなくとも疑ってしまうことはあるだろう。
過去の自分の行動を理解しているだけに、見捨てられることをダンテは恐れている。
【ま、お前が忘れたらその度に、私がどれだけお前を愛しているか教えてやるさ】
どれだけ自分を惚れさせたら気が済むのかこの姉は。
再び歩き出したに引き摺られるように二三歩たたらを踏んでから、ダンテはしっかりした足取りで姉の後を追い越さない様について行く。
現金なもので、固く結ばれた手が今は愛の証明だと信じられた。