斜陽の影

まだ十にも満たない歳の子どもが二人きり、綺麗なままで生きられる程、世界は優しくない。
保護を失ったとダンテは、生きるために歩き続けた。
始めに焼けた屋敷から持ち出したなけなしの品々を売った。
相手が子どもだと足元を見られては困るので、は閻魔刀を持って、アンダーグラウンドな店を選んだ。
違法店ならば、年齢は関係なく品が良ければそれなりの値段で買い取ってくれる所はいくらでもある。
幾許かの金銭と引き換えに、平和だった頃の思い出の品々は手元を離れていった。
その金で二人は衣服と靴、少しの食料を手に入れた。
家のない二人が次に行ったのは、住む場所を得ることだった。
当然アパートの部屋を借りるだけの金などない。
使われてなさそうな廃ビルに忍び込み、先住者がいない場所を探してそこに住み着いた。
水も電気も通っていないが、屋根があるだけありがたい。
寝るには十分だった。
人が来ればその都度隠れてやり過ごし、壊す計画が立っていると知ればすぐに場所を変えた。
暮らす為には金が必要で、金を稼ぐ為には職が必要だった。
だが、見るからに幼い子どもを雇う所などない。
僅かな糧を得るために、は長く伸ばしていた銀色の美しい髪さえも切って売った。
それで得た金もすぐに食費に消えていく。
生きるためには他者から金を盗んだ。
外見年齢に見合った精神の弟には犯罪行為をさせたくなくて、廃ビルにダンテを残し全部一人でやった。
必ずしも盗みが成功するわけではなく、時には強盗紛いに閻魔刀で人を脅すこともあった。
周辺をねぐらにしているストリートチルドレンたちに絡まれることもあったが、全て力ずくで捻じ伏せた。
子どもに有るまじき力と閻魔刀は、幼い彼女にとってひどく心強かった。
その二つに奢っていたと言い換えてもいい。
弟に汚い面を見せないまま生活を成り立たせる為に、は必死だった。
ダンテにだけは、綺麗なままでいて欲しかった。
突き詰めればそれは彼女のエゴだった。
幸せだった頃の生活の名残を少しでも残しておきたいという、の我儘だった。
ダンテは年相応のまま、世界の暗い面を感じ取りながらも明るく無邪気に成長していった。
何も言わないから、それでも何かを理解したのか、金の出所についてダンテが追及することはなかった。
ただ明るい笑顔でを迎え入れた。
反面、は表情を出すことが少なくなっていった。
口数も少なく少女らしさは失われ、短く刈った髪は彼女を少年に仕立て上げていた。
鋭く冷たい眼光もそれに拍車を掛けた。
唯一ダンテの前でのみ、少しだけ笑うことができた。
ある日のことだった。
いつも通り愚鈍そうな大人から財布を掠め取り、は追ってくる相手を振り切ろうと走っていた。
後ろの気配は遠のいている。
これなら振り切れると安堵したの耳に破裂音が響き、動かしていた足に衝撃が走る。
「ぅあ゙っ!」
堪え切れずにバローダは顔面から地面に倒れる。
走っていた勢いを殺しきれずに、幼い体が地面にぶつかって跳ね、スラムの裏路地を無様に転がった。
じくじくとした痛みが右足のふくらはぎから脳に伝わる。
は赤く濡れた足を見て、自分が銃で撃たれたことを知る。
地面に打った全身が痛い。
甘く見ていたと、は内心で臍を噛んだ。
手慣れてきたことによる油断がこの事態を招いた。
走り寄る足音に、は振り返る。
そこにいるのは当然、助けるために駆け寄ったお人よしなどではない。
「このガキがっ、手間取らせやがって!」
ありきたりな言葉を吐き捨てながら倒れるに近寄るのは、財布を盗まれた男だ。
手の中には力を誇示するように大型のリボルバーが硝煙を上げている。
あれで撃たれたのかと、は痛みとは違う感情に顔を顰めた。
走っている相手の、しかも子どもの足を撃ち抜くのだから、銃の腕は悪くないらしい。
財布を取り返し、多少の制裁を加えられるだけならいい。
悪魔の血のお蔭で、普通の人間よりも怪我の治りはずっと早い。
血で見えないが、撃たれた箇所も半分塞がりかけている。
ダンテの元に帰る頃には完治しているだろう。
無事に帰れればの話ではあるが。
男はの手から財布を奪い返し、中身を確認するとポケットに捻じ込んだ。
舌打ちと共に、に銃口が向けられる。
引き金が引かれると共に、の幼い肢体が跳ねた。
撃ち抜かれたのは反対側の足だ。
男は嗜虐的な、絶対的強者であると確信した優越感に満ちた笑みで、に鉛玉を撃ち込む。
男は続けざまに右肩、左肩、両の太腿を撃った。
その度にの体は痛みと衝撃に跳ね上がり、悲鳴ともつかない呻き声を上げる。
小さな体はぐっしょりと血に濡れた。
「ククッ、ハハハハハハハハハハハハハッ!!」
男は愉悦に満ちた笑い声を上げた。銃の腕は中々だが、人間性は最低の様だ。
痛みで気絶することも許されないは心の中で毒づいた。
男はしゃがみ込むと、まだ熱い銃身をの顔に近づける。
「痛いか? なぁ、痛いか? どうだ、オイ」
近づく銃身を避けようと顔を逸らすを男の濁った目が覗き込む。
「何とか言えよオラァ!」
一向に口を開かないに飽きたのか、男は立ち上がり血塗れの体を蹴り上げた。
男が力一杯蹴ったのか、はてまたの体が軽すぎたのか、地を離れた幼い体はすぐ傍の壁にぶつかる。
背から強かに衝突したは、衝撃に呼吸を奪われ、うつ伏せのまま咳き込む。
追い打ちを掛ける様に、男はその背を踏みつぶした。
ギリギリと押し潰される体に、は声にならない悲鳴を上げる。
込み上げる吐き気に喉から零れ落ちたのは、鮮明な赤。
内臓の何処かをやられたのだろう。
スラムの裏路地に鉄錆の匂いが強く香る。
「なんかもう飽きたなぁ」
男は銃に新しく弾を装填する。
戯れに弾倉を回転させながら、転がっているに近づき、頭のすぐ横でしゃがんだ。
がちゃりと、撃鉄を起こす音がのすぐ耳元で聞こえた。
青い目が頭に突きつけられた銃口を捉える。
の体が初めて、恐怖に戦慄いた。
体ならまだしも、頭部を撃たれたことは未だかつてない。
普通の生き物ならば、頭を破壊されたら死んでしまう。
絶大な治癒力を持っていても、治る前に死んでしまったらそれでおしまいだ。
これだけ経口の大きい銃に至近距離で撃たれたら、途端に頭部が破裂するだろう。
「俺の財布を盗むから、こうなるんだぜ?」
男の指が引き金に掛かる。
ぎりぎりと、見せつけるようにゆっくりとトリガーが引かれる。
体は、動かない。
恐怖で、動くことができない。
絶望に塗れた幼い顔に、男が笑った。
薄汚く、醜く歪んだ笑顔だった。
「じゃあな――」
その時彼女を突き動かした衝動を、なんと呼ぶべきだろう。
あるいは生存本能であり、その身に眠る悪魔の力であり、憤怒であったかもしれない。
気付いた時には立ち上がり、手に呼び出した閻魔刀で相手の腕を斬りつけていた。
男の銃がそれを持っていた腕ごと宙を舞う。
唖然とした表情の男を、白銀が貫く。
遅れて、どしゃりと斬り飛ばされた腕が地面に落ちた。
ずるりと、閻魔刀を引くと男はそのまま倒れた。
男の体から溢れだした鮮血が、コンクリートの地面を赤く染め上げる。
わざわざ確認するまでもなく、多すぎる出血は既に男が事切れていることをに知らせる。
意識に靄がかかったように、は何も考えず男の財布をポケットから抜き出し、住処へと向かった。
途中、壊れた排水管から漏れ出る水で手足と、閻魔刀の血を洗い落した。
傷口は全て跡形もなく塞がっている。
閻魔刀は血脂に曇ることなく、むしろより輝きを増していたように見えた。
ふらふらとした足取りで歩くに、しかし近づく者はいなかった。
彼女を取り巻く虚ろで冷たい空気が、獲物だと勘違いした者を寄せ付けなかった。
閻魔刀は何も言わなかった。
『家』に帰るとダンテはぼろ布に包まって眠っていた。
安らかな弟の寝顔をは呆然と見つめる。
手の中に閻魔刀を突き刺した感触が蘇ってくる。
初めて、人を殺してしまった。
いや、殺せると知ってしまった。
何の感慨もなく、衝動のままに殺せてしまう。
ただ閻魔刀を一振りするだけでいいのだ。
それだけで人は、あっけなく命を散らしてしまう。
恐ろしかった。
何よりも、簡単に命を奪えてしまう自分が、は怖かった。
殺されると思った瞬間に感じたよりも強く、深い恐怖感。
自分は、奪う側の人間だ。
母を殺した悪魔同様、他者を殺せる人間なのだ。
の手から閻魔刀が落ちた。
容易く他者の命を奪える力と心が、悲しかった。
また自分は誰かを殺すだろう。
の中で、それは予感ではなく、確固たる事実だった。
震える手で眠るダンテに縋りつき、は目を瞑った。
今は何も見たくない。
唯一残された温もりにしがみつき、闇に飲み込まれる様に眠った。
深く深く、夢も見ない程に。
閉ざされた瞼から、透明な滴が一粒、零れ落ちた。

はその日から盗みを止めた。
十を数える歳の頃、彼女は名の知れた殺し屋だった。