さよならのかわりに

という生き物はこれまでに三度『死んで』いる。
一度目はこの世界に生を受けた時。
二度目は母を喪い、帰る場所を無くした時。
三度目の死は目の前の男――実の弟によってもたらされた。
一度目は抗うこともできず、やがて事実を受け入れることで世界に順応した。
二度目は幼い弟を守るという名目の元で振り切った。
三度目、彼女は跡形もないほどに壊れた。
砕けて壊れて零れ落ちた破片を、出来るだけかき集めてぐちゃぐちゃな中身をそのままに器だけを取り繕ったのが今のだった。
「さて、用件を聞こうか」
上辺だけを整えた彼女の中身は、未だ壊れたまま。

ダンテという生き物はこれまでに二度『死んで』いる。
一度目は幼い頃、目の前で母を殺された時。
二度目の死は目の前の女――実の姉の喪失だった。
一度目は幼い身を、同じく幼い子どもである姉に支えられ乗り越えた。
二度目は支えなどなく寄る術もなく、本人も気付かぬ内に少しずつ壊れ、壊れた部分を再構築したそれはいびつに歪んでいて。
そうして全部を作り直されたのが今のダンテだった。
「客に茶も出さないのか? 冷てぇな」
喪失と執着が彼を人から逸脱させた。

二人は互いにそう広くないテーブルを挟んだ正面に座っていた。
はダンテの揶揄する様な催促に無言で立ち上がり、水を入れたやかんを火に掛け、ティーポットに茶葉を放り込む。
カチャカチャと陶器が音を立て、テーブルには二人分のカップが並べられる。
「坊やはどうした?」
「寝ている」
家に帰って来たが真っ先にしたことは、気絶しているネロを奥の部屋に運び込むことだった。
息子を気遣った結果でもあり、同時に気絶しているネロを人質にさせない為でもある。
の座る場所は奥に繋がる廊下を背にしている。
話の途中でダンテから攻撃を受けても、ネロを連れて逃げられるようにとの考えからだ。
は息子を見捨てない。
見捨てることなどできない。
逆にダンテは自分の息子であろうと殺すことができる。
この差が命運を分けるであろうと二人は薄っすらと感じ取っていた。
やがてやかんが湯気を吐き出しながら甲高く鳴いた。
火を止め、ポットに沸きたての湯を注いで暫し茶葉を蒸らす。
陶器の細い先端から白いカップへと上質な琥珀に似た色の液体が強い芳香と共に注がれる。
冷たい銀に湛えられたミルク、硝子に詰められたレモンと角砂糖がテーブルの上に並んだ。
はダンテの正面に座り、何も入れない紅茶を上品な動作で口に運ぶ。
対してダンテはミルクと砂糖を大量に投入し、イギリス人辺りが見たら激怒しそうなどろりとした紅茶だった何かをさも美味しそうに流し込む。
紅茶を淹れたはミルクと砂糖の量に思わず眉を顰めたが、声に出して咎めることはしなかった。
「それで?」
「何がだ?」
「今更私を訪ねて来たのは一体何の用があってのことだ」
静かにカップがソーサーに戻される。
薄氷と青空が向かい合った。
「今更? 今更なんかじゃないさ」
薄い唇を歪めた笑みと呼ぶにはあまりに獰猛なそれは、獲物を前にした獣を思わせた。
は訝しげに片眉を上げ、更なる言葉を促す。
「俺は待ってたんだ、ずっと。アンタが帰ってくるのを、アンタと居た年月と同じだけ、あの事務所で待ってた」
「……それはそれは」
感心よりも呆れを前面に押し出しては大仰に肩を竦めた。
言葉にはありありと馬鹿にした空気を含ませる。
「気の長いことだ」
ダンテの言葉をそのまま受け取るならば、彼は十八年間も待ち続けていたことになる。
がダンテと身を別たったのが十八の頃、ネロを産んだのが十九の頃、愛しい一人息子は今年で十七を数えた。
「アンタに関してのことだけさ」
猛獣の笑みでダンテは浮かべ、ようやく得た再会を歓喜する。
他では補うことのできない、唯一の半身。
長い年月を経て変わってしまった今でも、ダンテの全てがを求めていた。
触れた柔らかさと熱を覚えている。
ぬかるむ秘所を貫いた感触を、悲鳴にも似た嬌声を、汗ばんだ肌の香りを、溢れ出た涙の味を、細胞の一つ一つが記憶している。
が姿を消してから、ダンテは何度も他の女を抱いた。
高まる欲求のまま、時に口説き落とし、時に力づくで体を繋げた。
そこに感情はなく、あったのは純然たる欲だけだった。
終わった後に残るのは苛立ちと乾いた欲求、数時間前までは人であった肉の塊が一人分。
たった一夜の行為で、ダンテはすでに只の人間の抱き方を忘れていた。
「それで?」
は再び、同じ言葉で問いかける。
「お前は何がしたい? 何が欲しい?」
氷の色をした瞳は見た目通りの冷たさを伴ってダンテを見据える。
細い指が革の手袋越しにテーブルを叩く。
苛立たしげというよりかは何かを計るような機械的な動きで、指が動いている。
「何を求めてここに来た?」
「アンタだよ、
ぴたりと、テーブルを叩く音が止んだ。
ダンテからすれば当然の答えであった。
それ以外の何を求めろというのか。
盲目的なまでの愛情はそれ以外を排除させ、唯一を求めることを選択させた。
いや、そもそも選択肢などなかったのだ。
以外、欲しくない。
「そうか」
はダンテを愛していた。
愛していたが故に壊れた。
ダンテはを愛している。
壊れて尚それは揺るがなかった。
一時でも交わることが出来た筈の道は、しかし二度と交わることなく進み続ける。
破滅へと、終焉へと、崩壊へと。
周囲を巻き込みながら壊れた愛情は壊れたまま求め続ける。
「愛してるぜ、
幸せそうに愛を告げるダンテの笑顔が、どうしようもなくの心を傷つけた。
返す言葉を持たない彼女は、代わりに鞘から抜いた愛刀の切っ先をその笑顔に向ける。
煙を上げる銃口から放たれた弾丸が弾かれると同時に、ダンテは座っていた体勢から床を蹴り後ろに下がっている。
刀の軌道上に残された椅子は微塵に刻まれていた。
深すぎる愛情とは言葉で綺麗に包んだ凶悪な衝動であった。
それはどうしようもないほどに殺意に似ていた。