開幕の鐘は高らかに

ダンテは驚くほどあっさりとの家を去った。
当然のことながら、潔く諦めたというわけではない。
今日はただの確認のためだったのだろう。
翌朝、目覚めたネロは何も言わず、またもダンテについて話題に出すことはなかった。
いつもと変わらない母の様子にネロは戸惑いながらも、言及することはなかった。
自分の出生に疑惑を覚え、僅かながらに恐怖を感じていた。
それが事実なのか確認する程の覚悟を少年は未だ持ち合わせていない。
あれは夢だったのかと思わずにはいられない、いっそ夢であればと願うネロを嘲笑うかのように、赤い悪魔が再び姿を現したのはその三日後、魔剣祭と呼ばれる大祭の行われたその日だった。
歌姫の賛歌も終わり《魔剣士スパーダ》に祈りを捧げる教皇の前に、赤を纏った男が硝子と共に舞い降りる。
誰もが予想してなかったに違いない。
襲撃者は入り口や信者の中からでなく、上から現れた。
人間の身体能力であればそこまで登る時点で発見され捕まるだろう。
ましてや建物の上ともなれば逃げ道はない。
騎士たちが警戒していなかったのも道理だ。
そう、襲撃者が普通の人間であれば。
滑るような動作で引き出された銃は教皇の眉間を捉え、火薬の破裂音と共に小さな穴を作り出した。
赤い血が舞い、老いた体は撃たれた衝撃で力なく背後に倒れ込む。
頭部を撃ち抜かれて生きていられる人間はいない。
誰の目にも明らかな死。
それは教皇という魔剣士教団のトップの消失を意味していた。
あまりにも唐突な襲撃、あまりにも鮮やか過ぎる手口。
立ち上がり振り返った襲撃者の雄々しく端正な顔を、酸化していない生々しい赤がべったりと汚していた。
祈りを捧げていた信者たちが慄き逃げ出す中、教団騎士たちは教皇を殺害した男に剣を抜く。
「教皇!」
声を上げたのは教団騎士長であり、ネロの幼馴染であるキリエの兄、クレドだ。
その声を合図に騎士たちが剣を片手に、己が指導者を害した男に斬りかかってゆく。
辺り混乱に包まれた。逃げまどう人たち越しに、ネロとダンテの視線が合う。
――あれは……
ネロは答えを得たような気がした。
先日のことは夢ではない。
そして、恐らくあの男が父親なのだろう。
ネロは確信する。
同時に理解した。
何故がネロに、ダンテと関わるなといい含めていたのか、青い目を見たその時に理解した。
――死神だ!
かつて母は自らを半人半魔だとネロに告げた。
悪魔の血はネロにも受け継がれていると。
異形の右腕はその証拠だと言った。
ならばダンテも半人半魔なのだろう。
だが彼の姿は、在り方は、既に魔の領域に染まっているように見えた。
あの男から背後に庇ったキリエを守りきれるだろうか。
ダンテの目的はわからない。
教皇を殺した意味も、あの日とネロの前に姿を現した理由も。
きっとあの男は殺してみせる。
邪魔だと判断すれば、悪魔であろうと人であろうと。
ネロは小さく頭を振る。
守れるか、守れないかではない。
今必要なのは守るという意志なのだ。
人混みに紛れてネロはキリエを外へと連れ出す。
人の姿をした左手でキリエの小さな手を掴んだ。
この手は、決して離さない。

魔剣士教団に所属しないは一人、森奥の家にいた。
椅子に座り閻魔刀の刃紋を視線でなぞる。
銀の刃に描かれた乱れのない美しい模様。
一種の芸術品を思わせるそれは、しかしケースの中に収まることのない実戦でしか存在しえない深淵の美だ。
決して折れることなく、斬れぬものなど存在しない。
そう、使い手の意思が折れぬ限り、閻魔刀は最強の武器と称しても過言ではない。
「来たか」
不意に聞こえるはずのない銃声を耳にしたかのように、は頭を上げて、大祭の行われているであろう方向を見た。
彼女の目線の先には壁しかないが、それすらも通り越して遠くを見据えている氷色の瞳は何処までも鋭い。
「さあ行こう、閻魔刀」
『主の意のままに』
従順な愛刀を撫でるように一度上から下へと振り下ろすと、彼女は黒い鞘に納めて歩き出した。
かつんかつんとヒールが高らかに鳴り響く。
の去った後、彼女の座っていた椅子が崩れ落ちる。
微塵に刻まれ只の木片と化した椅子は、恐ろしい程に滑らかな切り口を晒していた。