前菜に変えて

いつからだろうか。
それは彼女自身にもわからなかった。
握っていた刀の鞘を払い、無造作に横薙ぎに振るう。
艶のない闇色の鞘は地面に着くよりも先にその場から形を消している。
怒るだろうか、アイツは。
手首を返し、刀を逆薙ぎにした。
切っ先が冷たく光る。
柔らかい、まるで常温のバターにナイフを刺した様な感触が手に残った。
怒るだろうな、あの子は。
ふと唇の端に笑みを浮かべる。
困ったような、それでいて許容するような笑みだった。
刀が翻り、下から上へと掬いあげる様な動きをする。
一見、それらの動作は比較的ゆっくりとしたものに見えた。
ふわりと撫でる様な動き、速度は素人のそれと同様。
避けようとすれば容易い様に思えるだろう。
だが、地面に残ったのは数多の無残な塵。
僅か三撃ではあり得ない程に砕かれ刻まれ姿を残すことすら許されず、息絶えている。
一番大きな塊でさえ掌に乗って余るほどだ。
これらはわきまえずに彼女を襲おうとしたものの末路。
自らに逆らうものを彼女は決して許しはしない。
スパーダが長女にして一児の母、は鋭く尖ったヒールで地面を鳴らしながらふらりと歩いて行く。
一陣の風が長い銀の髪を浚っていった。

集まっていた人たちが慌てて逃げ出してゆく。
銃の弾さえもったいないとばかりに体術と剣で騎士たちが圧倒され、絶命してゆくのを横目に、ネロはキリエを外へ連れ出そうとする。
だがもう出口に来たという所で、彼女は振り返ってしまった。
教皇に駆け寄った兄、そしてその後ろから迫る男。
「兄さん!」
「キリエ!」
幼馴染の少年の手を振り払い、兄を呼ぶ。
たったひとりの、大切な兄なのだ。
兄であるクレドがどれだけ強いか、キリエにはわからない。
ただ強いということだけは知っている。
だが、あの人は駄目だ。
あの人は、怖い。
本能が恐怖に怯えていた。
それでも、兄を喪いたくはない。
理性で恐怖を押さえ付け兄へと駆け寄る健気な少女に、剣に吹き飛ばされた騎士の体がぶつかる。
それなりの速度でもってぶつかってきた成人男性の体を支えられるはずもなく、キリエは床に倒れ込んだ。
近づいた足音に、キリエは腕で支え、息を震わせながら前を見る。
視界に映る赤い、コート、太い首、白い肌についているあの赤いものは。
おそらく彼女がその短い人生の中で初めて目にした人間による悪意を持った殺人。
その実行者が、今、目の前にいる。
恐怖に声も出ず、引き攣った喉からは掠れた喘ぎだけが漏れだした。
遠くで、鐘が鳴る。
死を祝福するように、生を断罪するように。
「うぉおおおおおおおお!」
ネロはダンテに走り寄り、そのまま両足で跳んだ。
勢いに任せて、その顔面に両足でドロップキックを決める。
大柄な体は蹴られた勢いで宙を舞う。
ネロは力一杯蹴り上げた反動に逆らわず宙で回りながら着地すると、そのままのけ反る相手に銃口を向け、引き金を引いた。
二つの鉛玉は騎士たちの血を吸った剣に弾かれ、ダンテに当たることはなかった。
銃弾が当たらないことはネロも予測済みだ。
母と同じか、性差を考えればそれ以上の動きが出来る可能性が高い。
ネロは銃を撃った次の瞬間には、間髪入れずに飛びあがっていた。
祀られた巨大なスパーダ像の眉間に剣を立てたダンテに襲いかかる。
単純に考えれば勝てないだろう。
あまりにも実力に差がありすぎる。
ましてや今持っているネロの武器といえば銃のブルーローズと、異形化した右腕だけだ。
倒れた騎士たちの剣が転がってはいるが、威力はレッドクイーンには程遠い。
ネロが唯一安心したことは、剣で弾をそのまま、銃で撃ち出された時と同じ速度で跳ね返されなかったことだった。
何せ、母であるはいとも容易く遊びの延長戦の様な気軽さで、そんな芸当をやってのけるのだから。
ダンテにとっても今は遊んでいる様なものなのだろう。
向けられた二つの銃口に、いっそ笑いたくなった。
『お前は父親に似てるな』
脳裏に浮かんだのは銃を扱うネロにいつだったかが漏らした言葉だった。
家事以外では手先が不器用な母は銃を使わず魔力の剣と閻魔刀、己が身のみで戦う。
――ああ、なるほどクソッタレ!
誰に言うでもなく、ネロは胸中で毒づく。
銃と剣を振り回し力ずくで相手を叩きつぶす戦闘スタイルは、父親似なのだと認めざるを得なかった。
「ネロ!」
「キリエ!」
声に振り向く余裕さえない。
目を逸らせば死神の鎌は容赦なくネロの魂を狩り取るだろう。
相手が遊びのつもりでも、経験の少ない少年が勝てる可能性は零に等しい。
目を離した隙に猛獣にじゃれつかれて命を落とすのは御免だ。
「クレドと逃げろ!」
キリエではなく少女を庇うように前に出た青年に向けての言葉だった。
ネロがダンテの相手をしている限り、クレドであれば道中は安心だ。
逆に、彼ら二人が此処にいると右腕が使えない。
武器が一つ減るということはそれだけ生存率も落ちるということだ。
「応援を呼ぶ! 死ぬなよ!」
生き延びろと彼は弟のような少年に告げ、妹を連れて駆け出す。
何か言いたげに振り返るキリエの身をクレドは包み込むようにしながらも腕で押す。
此処にいれば彼女は確実に足手纏いにしかならない。
少年の集中力を削ぐようなことは危険だ。
まして、相手があの男であるならば。
「期待せずに待つさ」
頭を振って首にかけていたヘッドホンを外す。
いつも聞いている音楽も、命懸けの戦いの中では邪魔にしかならない。
――これが親子喧嘩ってやつか
何とも物騒で命懸けの代物だ。
とは喧嘩などしたことがないので、ネロにとっては正真正銘、初めての親子喧嘩だ。
相手は叔父であり、父親であり、無慈悲な殺人鬼。
命を狩り取る死神の様な男で、慈悲深き母の双子の弟。
ヘッドホンが地面に着くと同時に、ネロは引き金を引いた。

硝子窓の嵌まっていた枠から飛び降りる。
常人にとっては自殺行為でもダンテにとっては只の移動に過ぎない。
次の目的地へと向かい歩き始める。
足取りはゆったりと、いっそ優雅さすら感じられた。
襲い来る悪魔に鉛玉を撃ち込みながら、追跡者などないと確信しているような速度でダンテは歩く。
追ってくるだろう、息子は。
中々面白い少年だった。
ダンテは唇に薄い笑みを刻む。
決して強くはない、だが強くなろうという意志はある。
殺意に満ちたひたむきな青い瞳は、若かりし頃のダンテによく似ていた。
目の色は母親ではなく父親に似たようだ。
戦い方も、どちらかといえばダンテに近い。
悪魔の右腕を使う独特のスタイルも楽しめた。
これで実の息子でさえなければ、ダンテはネロを気に入っていただろうに。
実に惜しいが、それもまた運命とやらの悪戯なのだろう。
何せ少年は、がダンテの元を去った原因なのだ。
間接的には双子で愛し合った禁忌や、罪悪感、挙げればキリはないだろう。
だが、直接的で決定的な原因はネロの存在だ。
あの少年がの胎に宿ったことによって、彼女は行動を起こした。
「残念だな」
それはあの場で少年の息の根を止めなかったことか、少年が自分の息子であることか、はたまた全く別のことか。
人のように笑む獣の顔からは窺うことなどできない。
「ああ、楽しみだな」
声音を変えぬまま正反対の言葉を紡いだ唇は酷薄に歪んでいる。