綻ぶいびつ

道を行くダンテの頬を薄い刃が掠める。
血が出ないギリギリの深さを見極め皮膚一枚だけ裂くように投じられた凶器は、地面に突き刺さると途端に澄んだ音を立てて消えた。
だが消える前の凶器の姿をダンテはしかとその目で見ていた。
剣の飛んできた背後を振り返っても、誰もいないだろう。
薄い気配は凶器を放つと同時にその場を素早く去って行った。
青い魔力の剣は、父の剣の姿を模していた。
その名をフォースエッジという。
文献も多く残っている筈なのでその剣の名と存在を知る者はあれども、形を知る者はそう多くはないだろう。
何せ重要視されるのはフォースエッジ自体ではなく、その剣が変化した結果の方だ。
その点、投じられた剣は父が使い、ダンテもかつて使っていた彼の剣を形だけとはいえ見事に再現していた。
ダンテは頬についた傷をなぞるように指を滑らせる。
その身に流れる悪魔の血が傷ついた先から修復したようで、元々浅い傷だったということもあり、痕跡はない。
「宣戦布告ってとこか?」
そのまま指を顎に添え、攻撃と呼ぶには殺意を感じない行動に目を眇める。
相手はわかっている。
遠い昔に親しみかつては身近にあった魔力を彼が忘れるはずもなかった。
「それとも『息子に手を出すな』って警告か」
大聖堂での戦闘が脳裏を過ぎる。
何処かで見ていたのかと思い起こすが、ダンテの感知できる範囲内に彼女の気配はなかったはずだ。
少なくとも大聖堂の中に、彼女はいなかった。
数日前に見た姿を思い浮かべる。
年を経て尚美しい、いや、罪に濡れ憂いを含みながら凛と咲いた彼女はかつてより一層美しい生き物になっていた。
悪魔でもなく人でもない、中途半端な半人半魔という生き物。
どちらでもあり、どちらにもなれない。
それゆえに、美しい。
「大丈夫さ。俺の相手はアンタがしてくれるんだろ?」
今はいない相手にダンテは嘯く。
もう一度頬を撫ぜると、足取りも軽やかに彼は進む。
行き先は一路、フォルトゥナ城へ。

ダンテを追い駆けるネロの目に銀が過ぎる。
慌てて足を止めて振りかえると、その人は穏やかに笑った。
「母さん!」
何故滅多に森から出てこないが此処にいるのか。
今日はあまりにも唐突なことが起こりすぎて知らず混乱していたネロは、疑問を抱くことさえなかった。
少しでも彼が冷静であれば気付けたかもしれない。
母が愛刀である閻魔刀を手の中に現せていることがどれだけ異常な事態であるか。
しかしどれだけ強かろうとネロはまだ二十にもならない少年であった。
大人であり母であるの異変を察せる程ではない。
彼女が強いと盲目的に信じていることも災いした。
ネロにとっては絶対的な守護者なのだ、彼が無意識の内であれ。
「怪我はないか?」
心配げな母にネロは頷く。
憮然とした顔は未だ自分の腕を信用していないのかと訴える為のポーズだ。
も困ったように首を傾げ、ネロの髪に手を伸ばす。
ヒールを履いた母に身長が届かないことを内心面白くないと思いながら、ネロは頭を撫でる手を素直に受け入れる。
「ダンテと戦ったと聞いたからな、心配もするさ」
何気ない口調で男の名を口にしたに、ネロの体が大げさな程に揺れる。
大聖堂での再会がまだ彼の中で尾を引いていた。
今まで戦ったどんな悪魔よりも悪魔らしい男。
目の前で笑う実の母の双子の弟。
そして、おそらく。
「なぁ、母さん」
「ん?」
「俺の、父親のことなんだけどさ……」
ネロが彼女の顔を見上げた時、は微笑んでいた。
口角は左右対称に上がり、目は弓のように曲線を描く、完璧なまでの笑みだった。
ネロの背筋が凍りつく。
あまりにも完璧すぎて、不自然な笑顔。
母の表情に気付いた瞬間、背中の神経に直接氷が触れたような寒気が走った。
アイスブルーの瞳には光などなく、その奥にどろりと淀んだ闇が見えた気がした。
底なし沼の暗い淵に立たされたかの様な感覚。
一歩踏み違えれば二度と這い上がれぬ泥に沈んでしまう。
闇に呑まれれば戻れない。
「どうかしたのか?」
艶やかな唇が笑んだまま言葉を紡ぎ出す。
初めて、生まれて初めてと言っていいほどに、ネロは母親に恐怖を覚えた。
叱られようと訓練で攻撃されようと、母を怖いと思ったことはなかったのに。
強い人だった。
優しくて、厳しくて、寂しくて、美しくて、ネロの中のはそんな女性だった。
ならば、ああ、目の前で笑っているのは誰だろう。
人形の様な顔で笑う彼女は、本当に母なのだろうか。
「な、ん……でも、ない……」
「そうか」
震えた声に、は納得したように笑みを崩して、平常通りの冷たいながらも穏やかな顔つきになった。
息子の怯えを知っているはずなのに、いや、知っているからこそなのか、彼女は平然とネロから離れた。
石畳を叩く硬質なヒールの音に、ネロは我を取り戻す。
「ダンテを追うならば早く行きなさい」
長いスカートの裾を翻し、彼女はネロに背を向ける。
顔が見えないことで、ネロはひどく不安になった。
母の知らなかった一面を垣間見てしまった罪悪感にも似た後悔がふつふつと込み上げる。
は離れてゆく。
息子の方を振り向かないままに。
「っ母さん!」
声を上げて呼べば、石畳を鳴らしていた歩みが止まった。
緩く下の方で纏められた銀の髪がふわりと風に揺れた。
顔が見たくて呼んだはずなのに、何故だろう、ネロには彼女の顔を見ることができない。
振り向いたがどんな顔で自分を見ているのか、ネロは確認するだけの気力がない。
その顔が『母』でなかった時が恐ろしい。
彼の世界はこの狭いフォルトゥナによって形成されている。
母と幼馴染と上司と、倒すべき悪魔。
至ってシンプルだった。
だがそれが、覆されてしまう。
いや、父――ダンテという異物が新たに世界に入って来てから、狭い世界が壊されるのは必然だったのかもしれない。
だからあの男は誰よりも何よりも怖い存在なのだ。
世界を壊し、大切な物を奪ってゆくと本能が知っていた。
「ネロ?」
優しい声が妙に空々しく聞こえたのは、思い込みだったのだろうか。
見上げた筈の顔は逆光に眩んで何もわからなかった。
「先に行くぞ」
足音が去ってゆく。
石畳を鳴らす音が遠ざかり、聞こえなくなることを安堵する自分にネロは吐き気を覚えた。
誰だって二面性を持っていてしかるべきだ。
だが彼女のアレは、そんなことで表現していいものなのか?
ネロはを母として慕っていた。
母についてそれなりに知っていたはずだ。
故に悩む。
ついさっき彼女が垣間見せた闇は、本当にのモノなのか。
そもそも本当のは何なのか。
きっと知っているのは彼女自身と、ダンテだけなのだろう。