悪魔の狂宴
がダンテに会いたくなかったと言ったのは、掛け値のない本音であった。
『優しくも厳しい、穏やかな母親』
それが、が表面を取り繕った末に作り上げた形だった。
その殻があれば、は人間になれた。
元々が愛情深い性質だったので、作り上げた殻を維持するのは容易だった。
以前のようにかつてのように、慈しめばいい。
道を間違えずに、今度こそただの肉親として愛せばいい。
思えば、過去の焼き直しのような半生だった。
弟の身代わりとして息子を愛した点がなかったかと指摘されたら、否定することはできまい。
実際、彼らは面差しから行動まで、よく似ていた。
育つ度に、見たことのないはずの父親に似た言動を行う息子に、生じた感情は何だったのだろうか。
だがは息子であるネロに保護者としての愛情を盲目的なまでに注いだ。
当然だろう、彼女にはもうそれしかまともな感覚は残されていなかったのだから。
ネロを通してしか、真っ当な感情を思い出せない。
彼女を完膚なきまでに叩き壊すきっかけとなった存在が、彼女の世界を作っているのは、一種の皮肉としか言いようがなかった。
しかしダンテとの再会はが築き上げた殻に罅を入れた。
中に閉じ込めていたモノが罅の入った部分を押し上げ、殻を破ってゆく。
彼はいつだって彼女にとっての破壊者であった。
生きる上で大切な物も価値のない物もまとめて壊し、自分だけを見ろと傲慢に笑う。
その幼い傲慢さも含めてはダンテを愛していた。
或いは、弟を許容しその要望通りになってしまえばよかったのかもしれない。
ただダンテだけを認識する、ダンテの為だけの存在。
少なくともそれに近い生き物にはなりかけていた。
胎に子どもを宿したと知るまでは。
「やっぱり、俺んとこに戻る気はねえんだよ、なッ」
力押しで攻めるダンテの剣をは刀で受け流す。
長く刃を合わせているのは、圧倒的に筋力も体力も足りないが不利になるだけだ。
故に速さ。
彼女が武器とするのはその瞬発力から生まれる速度と、何よりも、愛刀の能力だ。
次元や空間すらも斬り裂くのがの唯一無二の愛刀、閻魔刀の力だ。
「Not speaking.(囀るな)」
理性が削れてゆく。
殻が割れ、中から冥いモノが溢れ出る。
は自分が笑っているの怒っているのか、はてまたは泣いているのか、さっぱりわからなかった。
余計なものが削り落され、頭が澄み渡っていく。
剥き出しの本能だけがを突き動かす。
それは人間の、ましてやこの世の生き物のものではない。
悪魔としての殺戮本能だ。
蹂躙せよと闇が囁く。
殺しつくせと影が蠢く。
の心中は凍りついた冬の湖のようにひどく冷え切った静謐さを保っていた。
赤が散る。
白磁の頬に飛び散った色はおぞましいほどに鮮やかだった。
の半生がかつての焼き直しであったするならば、この結果も或いはいずれかに有り得たことの焼き直しだったのかもしれない。
閻魔刀の細い刀身はずるりとダンテの体に飲み込まれるように突き刺さり、収縮を繰り返す生命の器官を貫いていた。
はそのまま手首を捻り、傷口を抉る。
これだけではまだ死ぬことはあるまい。
だが、さしものダンテも心臓を抉られては動きが鈍らざるを得ない。
その隙を突くように、ふわりと音もなく無数の魔力の刃が展開され、ダンテに突き刺さる。
石造りの床が赤く濡れる。
青い刃は霧散することなく獣の四肢を貫き突き刺し、床に縫い止める。
閻魔刀を引くと同時に、再生しようとした心の臓を今度は幻影剣が穿つ。
「流石に、痛いな……」
「そうか」
心臓を貫いたくらいでは死なない。
恐らく、抉り出しても無駄だろう。
頭部を貫かれても心臓と同じである可能性が高い。
ならば、心臓を貫いたまま首と体を断ち斬ってはどうだろうか。
悪魔とて生物には変わりない。
ましてやダンテとは半人半魔と、人間の部分が残っている。
重要な器官を同時に二つも無くせば、いかな大悪魔の血を引くとはいえ死を迎えうるやもしれない。
手足に刺さった幻影剣を壊そうともがくダンテの姿は標本にされた蝶のようだ。
幻影剣は腕と脚にそれぞれ三本ずつ、等間隔に突き刺さっている。
もがけばもがくほど床は血に染まってゆく。
心臓を潰されているのだ、あまり力が出ないのだろう。
出血が多いほど血が足りずに動きも鈍くなる。
はうっそりと笑った。
「大丈夫だ。もう痛みも感じなくなる」
優しさすら感じられるような柔らかな動作で、は閻魔刀を太い首に添えた。
冷たい刃が白い肌に触れるか否かで離され、高々と掲げられる。
血を吸った閻魔刀は悪魔が操るに相応しい暗い輝きを帯びていた。
「さようならダンテ、いい夢を」
穏やかな声だった。
迷える子羊に手を伸ばす慈悲深き者の様ですらあった。
刀を振り下ろすその冷たい瞳に、一瞬宿った光は一体何だっただろうか。
人として死ねぬ半身をやっと眠らせることができる安堵、自分に殺されることへの憐れみ。
どちらにせよの中にはもうない感情だ。
救いのように、断罪のように、無情な刃は振り下ろされる。
「あっ……」
ぐちゃりと、肉が刃を飲み込んでゆく。
身から溢れ滴った血は不思議なほどに温かい。
輝く白銀が赤く濡れる。
地に倒れ伏したのは、黒と青を纏った女だった。
「ぃってーなぁ」
閻魔刀はかろうじてダンテの首の真横の地面に突き刺さっていた。
首自体には傷一つない。
隣の床に倒れたの胸には深々と五指剣が刺さっている。
幅広いナイフのようなその短剣を繰り出したのは、四肢を留められていた筈のダンテだった。
振り上げた片腕は見るも無残に抉られているが、すぐに再生してゆく。
彼は力づくで刺さっていた幻影剣を壊すのではなく、短剣を隠していた腕をそのまま幻影剣で貫通させて持ち上げたのだ。
四肢と心臓を穿っていた幻影剣が甲高い音を立てて砕ける。
それはまるで断末魔の悲鳴のようだった。
上半身を起こしたダンテの肌にはもう傷痕はなく、ただ自らの血によって壮絶なまでに赤黒く染まっていた。
「なん……だ」
は立ち上がるべく床に指を立てるが、それすらもままならない体に愕然としていた。
上半身を起こしたダンテは飄々と自分の服の惨状を確認して眉を顰める。
血と床の埃と刺された傷のせいで、二度と着られないことが一目でわかる。
は立つことが出来ないのは胸に刺さった剣の所為かと、深く刺さった短剣の柄に手を伸ばす。
柄頭には宝石があしらわれ、金銀の華麗な装飾が施されたそれはいかにも儀礼用か美術品としてのものだということが窺える。
だからこそは見た目に反し己が身を縛り付ける五指剣に驚き、現状が呪いか何かの効果と検討をつけた。
足先から段々と冷たくなってゆく。
早く処置せねば危険だと、伸ばした手は逞しい手に奪われた。
「その剣な、刺した悪魔を殺すっていう祝福?みたいなのがされてんだとさ。その代わり人間を傷つけると使えなくなるって面倒なやつがな」
ダンテは掴んだ手の甲に恭しく唇を落とす。
の背から覗く剣先は早くも黒ずみ砕け始めていた。
悪魔でありながら人間であるを刺したことで、悪魔を殺す呪いと同時に制約も働き始めたのだろう。
悪魔の血の力がなければの体とてただの人間と何も変わらない。
五指剣は確かに彼女の心臓を捉えていた。
悪魔の血で心臓が再生できないというのならば、向かう先は死のみだ。
「一緒にいるのが無理なら、こうするしかないよな?」
無邪気な、楽しそうな子どもの笑みだった。
細められた瞳の奥にはこの結末が間違っているかなど疑う影もない。
彼は信じ切っている。
これ以外にを手に入れる方法はなく、これが現状では最上なのだと。
そしてそれに満足してさえもいた。
ごふりと、が血の塊を吐き出す。
白い肌はますます青ざめ、紫色の唇は吐き出した血で毒々しい色に染められている。
心臓を突かれて尚すぐに死ねないのは、強力すぎる悪魔の血か。
だがその効力も既に薄れ、残っている支えは彼女の強い精神力のみだ。
ダンテはじっとの顔を覗き込む。
薄れゆく意識を、その目の中に納めようと、瞬きもせずにただ見つめる。
長い睫毛に縁取られた氷の色は白濁しつつあった。
ダンテの掌の中で彼女の手が体温を失ってゆく。
「おやすみ、いい夢を」
優しい声が贈られ、彼女の意識は霧散した。
肉体から魂が失われてゆくのをダンテは見届け、握っていた手を開いた。
「さて、これぐらいはもらっていってもいいだろう?」
誰に言うでもなく、彼は近くにあった閻魔刀を床から抜く。
拒否の意思が伝わってくるがダンテはそれを無視して、彼女の愛刀を滑らせた。
ぶつんと、軽やかすぎるほどの切れ味でもって肉も筋も骨さえも容易く断たれる。
ダンテはの横の床に閻魔刀を刺すと、分断した物を拾い上げる。
それは手だった。
指抜きの革グローブに包まれたそれはダンテのものに比べると全体的に細くしなやかだ。
かといって筋肉がついていない訳ではない。
不必要なものを削ぎ落とし実用的なものだけを備えた、機能美の体現であった。
美しく切り揃え磨かれた爪が光を反射する。
手首から先は断たれ、まだ腐敗も硬直も始まっていない鮮やかな筋肉の赤に囲まれた白い骨が見えた。
切り口はひどく滑らかで、何かから切り離したのではなく最初からそうあったかのような姿をしていた。
無粋なグローブを外すと銀の細い指輪が、薬指の根元で静かに輝いていた。
「あいしてる」
世界に一人だけとなった悪魔は、囁くように、嘆くように、喜びを謳う様に、冷たい手に頬を擦りつけた。
その唇は悲しいまでに優しく微笑んでいた。