閉じた楽園

記憶している最初の兆候は人形だった。
ふかふかとした白地に赤い瞳のウサギのぬいぐるみ、首元には青いベルベットのリボンを巻いていた。
三歳の誕生日に両親から与えられたものだった。
幼いはそれを大切にしていた。
トイレや風呂以外の時はできるだけ持ち歩くようにしていた。
その方が子どもらしいだろうという打算が多少なりともあったが、それ以上に彼女は両親からのプレゼントが嬉しかった。
寝る時はダンテと向き合い額をくっつけて眠っていたが、ぬいぐるみを与えられてからは二人の間にウサギが挟まるようになった。
それがいけなかったのだろうか。
眠る半身に抱きつこうとするのを遮る邪魔ものに、幼い弟は何度も癇癪を起し、赤ん坊に戻ったかのように夜泣きを繰り返した。
それまでは姉と同じベッドにいれば大人しく眠っていたというのに。
結果として寝ている間はぬいぐるみを手放すこととなったが、精神は成人しているはそこまでこだわらなかった。
それ以上にたかだかぬいぐるみひとつに泣いてしまうほど幼いダンテが、どうしようもないほど可愛くて大切だった。
だからその数日後、ダンテが勝手にぬいぐるみを持ち出してその首や四肢をもいでしまっても、は仕方がないと甘んじて許し受け入れた。
三歳の子どものすることに目くじらを立てるほど大人げなくはなかったし、故意的なものではなく力加減ができなかったのだろうと判断した。
それでもけじめだと半泣きのダンテの頭を叩いて、それから撫でた。
「ねーさん、おこってる?」
「おこってないよ」
両親からもらったものを壊されたことは悲しいが、怒ってはいない。
ほっとした顔をしたダンテと額を重ねては語りかける様に話した。
「ウサギさんね、パパとママからもらったのよ。だからぼろぼろでかなしいの」
「……ごめんなさい」
いつもより低く静かな姉の声に、ダンテも沈み込む。
「ちゃんとごめんいえたから、ゆるしてあげる。だけど、もうやっちゃだめなんだからね?」
「うん……」
素直に、大好きな姉に嫌われないようにと頷く弟に、この時は安堵していた。
ダンテが自分のしたことを理解し反省したのだと思った。
二番目は本だった。
子どもの手には少し大きな、水彩画の水と緑が美しい自然が描かれた絵本だった。
絵本といっても何の文字も書かれていない、連続性のある世界を束ねた画集に近いものだった。
は父の書斎で見つけたそれを持ち歩いたり隠したりなどはしなかった。
その代わりにふらりと書斎に入り込んでその世界を堪能するという時間が小一時間ほど、彼女の日常に組み込まれた。
睡眠時間の長い幼児にとって、起きている間の一時間はかなりの長さだ。
だがは飽きもせず本を眺めることに熱中していた。
あくる日が訪れた書斎で目にしたのは、異様なまでに丁寧に細かく、いっそ狂気すら感じさせられるまでに裂かれた紙クズの山だった。
いつもの絵本を本棚から手に取る前に、はこの重厚な静けさの漂う空間に不釣り合いな異物に興味を引かれた。
しゃがみ込んでは紙を摘み上げた。
四歳児の小さな掌に数枚の紙が乗り転がされる。
やけに色とりどりの紙だ。
少し厚めの紙は鋏ではなく手で千切られたものらしく、端には上手く切れなかった白く薄い紙片が付いている。
何か絵が描かれているようだが、かなり小さく丹念に破られているので全体の構図の判明は難しい。
紙片には濃淡の異なる青、茶、緑を主として白や主線らしい黒などが混じり踊っている。
紙を摘み上げてはパラパラと落としていたは、幸か不幸か、紙クズの中に見覚えのあるものを見つけてしまった。
よく見ていた絵本の中、自然ばかりのページの中で唯一と言っていいほど珍しい動物が一匹佇んでいたのだ。
それは黒い狼だった。
琥珀色の瞳の狼は蔦の這う木々を背にこちらをじっと見つめていた。
その瞳によく似た細い瞳孔らしい線が入った琥珀色が、手の上からに何故自分はここにいるのかと、訴えかける様に見つめていた。
彼女は何も言わず、紙を掌から落とし、後ずさった。
「なにあれ、なんで……?」
訳がわからないと混乱しながらもは子ども部屋へと戻る。
ドアを開けた先にいたのは満面の笑みを浮かべたダンテだった。
「ねえさん、おかえり。いっしょにあそぼー!」
「……うん、あそぼうね」
輝かしい笑顔の弟に手を伸ばし、抱きしめる。
きゃーとわざとらしい悲鳴を上げながら笑うダンテには安堵した。
先ほどの衝撃を癒そうと弟に笑いかけるそこには不審感など一つもなかった。
そこからはもう挙げるのも億劫になるほどだ。
庭に咲いている花であったり、小さなオルゴールであったり、繊細な硝子細工であったり、額縁に飾られた絵画であったり、少しでもが気にかけ時間を割くようになると、それらは瞬く間に壊れた。
まるで何かに呪われたかのように。
自分のせいで何かが壊れていくのを恐れたは、少しずつ物に執着することをやめていった。
彼女から執着心を奪う決定打となったのは、近所の野良猫だった。
庭に遊びに来た所をたまたま見つけて構っていただけではあったが、は人懐こいその猫を確かに可愛がっていたのだ。
赤い飛沫が、目の前を散った。
通り過ぎる車にはね飛ばされ、小さな体が木の葉のように舞った。
悲鳴さえなく地面に叩きつけられ、石畳を赤く濡らす。
は何もできず、道路に飛び出して車にはねられた猫を視線で追った。
ああやはりという、諦観を持って。
「……だから、くるまはきらいよ」
振り返ることもなく、止まることもなく、容易く命を奪うから。
はぼんやりと倒れた猫の傍まで歩み寄り、ふわりとしていたはずの毛に手を伸ばした。
血に濡れてごわごわとした手触りの下に鼓動はなく、熱いくらいだった体温は少しずつ冷えていった。
「ねえさーん!」
少し離れた場所にいたダンテが駆け寄ってくる。
もう帰る時間だと知らせに来たのだろうかと、は猫の前にしゃがみ込んだまま振り返った。
「いえにはいりなさいって、かあさんが!」
「うん、わかった……」
風が冷たくなってきた。
早く家という名の城に戻らなくては体に悪いということはにもわかっている。
わかっているのにそれなのに、体が動かないのは何故だろう。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ」
は猫の死体から手を引く。
白い手にべったりとくっついた赤がやけに生々しく鮮やかだった。
「っ! ねーさん、けがしたの!? いたい!? いたい!?」
自分の方がよっぽど痛そうな顔をして今にも涙を零しそうになりながらダンテは姉の手を取る。
付いた血をのものと勘違いしたのだろう。
「いたくないよ、だいじょうぶ」
「ほんと!? いたくない!!?」
「ぜんぜんいたくないよ」
本当に痛いのは手などではないのだから。
は汚れていない方の手で今にも泣きそうなダンテの手を掴んで歩き出した。
早く帰らなくては風邪を引いてしまうかもしれない。
自分はいいが弟が熱を出しては可哀想だと足を速める。
その背後でダンテがどんな顔をしていたかなど、彼女は知らなかった。
それからは物や動物はもちろん、家族以外の人とも接することを極力減らした。
あの猫に起きたことが人間に起きないとも限らない。
家族は大丈夫だろう、というのも今までに触れ合って来た期間、不幸な事故がなかったから確信できたことだった。
だが父は早くに家を去り、最後の砦であった母さえも双子が八歳の誕生日を迎えたその日に殺された。
彼女の手元に残ったのは片割れのアミュレットと閻魔刀、そして己が半身であるダンテだけだった。
それ以外は全て壊れた。
何もかも跡形もなく壊れて燃え尽きてしまった。
元々心が強いとは言えない子だった。
極々普通の感性を持った、優しい少女だったのだ。
生まれ変わる前は安全な日本という国に生まれて特段事件に巻き込まれたりなどせず、平凡に暮らしていた。
そんな彼女が、気に掛けたものが次々に壊れていくという現実に心を痛めない筈があるだろうか。
そして、最後まで壊れなかった、手元に残った存在に執着することを誰が責められようか。
は他への感情を排除し、代わりに残った三つの存在に執着と愛情を注いだ。
「それが全部予定調和だとしたら?」
ダンテはトマトジュースの瓶を煽る。
昼間からの飲酒は体に悪いと姉に禁止を言い渡されているのだ。
飲み干した瓶を適当に転がしておく。
「たとえば、絵本も花もオルゴールも硝子細工も絵画も、壊したのは全部俺で、猫が死ぬように仕向けたのも俺だったとしたら?」
流石に母さんのことは俺じゃないがなとダンテは肩を竦める。
「あんた、最悪ね」
レディは知り合ってしまった男の凶悪性に顔を嫌悪に染める。
同時に彼の姉を哀れに思った。
しかし椅子に寄りかかり机に足を乗り上げたダンテは、レディの内心を読んだかのように嗤う。
「姉貴だってとっくの昔に気付いてるさ。ただ失くしたものよりも俺の方が大切だったんだろ」
だから許した。
彼の暴虐を、幼い我儘を甘受して、自分が人間として歪んでしまうことを受け入れた。
元よりダンテに対しては異様に甘い所があったのを、彼は逆手に取った。
その結果が今にある。
「この悪魔!」
まさしくその通りだと、苦々しい顔で珈琲を飲むレディにダンテはただ笑みを深めただけだった。
その瞳には愛しい青しか映っていなかった。