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「どうして母さんはダンテを見捨てないんだろーな」
膝の上にペット兼護衛のケルベロスを抱きかかえて、自分の家庭事情が複雑なことを最近自覚したネロが唇を尖らせる。
ネロはダンテの子どもであることはほぼ疑いようがない。
スパーダに隠し子がいたというなら別だが、妻の為に創造主を裏切ったような男が浮気しているとは考えにくく、もう一人のスパーダの血族であるには出産の経験がないためだ。
ネロは自分を産んだ母親の顔どころか名前さえ知らない。
もしかすると桃屋にいる女性や街角で客を取る娼婦の中にいるのかもしれないし、いないかもしれない。
その代わり、ネロには立派な育ての母がいる。
ネロの血の繋がった父親の双子の姉で、本当ならば伯母と呼ぶはずだった人だ。
もっふりとした黒い毛皮に顔を埋める。
こそばゆいのかケルベロスは体を動かすが、両腕で抱きしめぐりぐりと額を押し付けると観念したかのように鼻で息を吐いた。
黙っているのは話を聞いてくれている証拠らしいとネロは勝手に判断する。
思えば、この悪魔とも長い付き合いだ。
「オレが生まれたのって、母さんがまだ十八ぐらいの頃だろ? それなのに赤ん坊のオレを引き取って、自分の子どもとして育ててくれて」
赤ん坊の自分を育てて事務所の経営をして家事をして、協力者になるべき男は頼りになりそうにない。
子どもにそんなことを悟らせるような人ではないが、若い身空で苦労も多かっただろうと想像はつく。
自分が産まれてから酒も女遊びも減ったと、母が笑っていたのはいつだったか。
それでも週休六日制という自分ルールに生きる男に怒りを覚えなかったはずはない。
それがただの姉弟ではなく、愛を交わし合った恋人同士ならば言うまでもないことで。
「母さんは、オレのこと、憎く、なかったのかな……」
力無く声が落ちる。
本当は疎ましく思われていたのではないか、最近ネロの頭の中を過ぎる問題だ。
愛した男と誰とも知れぬ女の間に生まれた子どもを抱え、憎らしいと、殺してしまいたいと思うことはなかったのだろうか。
ダンテよりも明確に憎まれる理由が自分にはある。
母はネロをそんな淀んだ瞳で見ることはなかった。
ただ一生懸命に愛し、慈しんで、健やかな成長を望んでくれていた。
だがその胸の内で渦巻いていた感情を、知ることはできない。
くるると喉を鳴らし、ケルベロスはその大きな口を開いた。
『姉君は主にすまないと言っていた』
「母さんが?」
『自分では家族をやれないと、それでも手を離してやれないと』
ネロは息を飲んだ。
本人の口からではなく悪魔から語られるそれが真実だとは限らない。
いくら忠実で礼儀正しいといえども、ケルベロスの本性は欲望のままに振舞い他者の血で渇きを潤す、獰猛な地獄の番犬であり高位悪魔なのだ。
その言葉をそのまま鵜呑みにするなど、最強のデビルハンターを親に持ち自分もまたその背を追う者としては決して褒められたものではないどころか初歩的な失敗だと叱咤されても反論できない。
知りつつも自分の知らない親の一面を知りたいと思ってしまうのは、親を持つ一人の子どもとしては仕方のないことだった。
「ダンテはなんて?」
『手を離そうなどとするなと、家族ならば姉君と息子で十分だと、それよりも家族が減る方が悲しいと言っていた』
「…………家族、か……」
育ててくれた母を、何だかんだ言いながら見守ってくれている父を、ネロは確かに愛している。
二人の間に愛が満ちていることを知っている。
家族の輪の中にいることを許されていることを知っている。
飛び立つのなら行きなさいと、帰りたいならおいでなさいと、いつでも腕を広げてくれているのを知っているのに。
疑いたい自分がいる。
そんなことはないよと、愛しているよと疑惑を否定して自分を肯定してくれる言葉を待っている自分がいる。
ネロは胸の内の浅ましい気持ちを覗きこむ。
不安が偽りというわけではない。
だがそんな不安を吹き散らしてくれるほどには愛されている。
安心感が欲しいだけなのだ。
「ダンテのこと笑えねーなぁ……」
『なに、存分に笑ってやるがいい。息子だから似てしまったのだと言ってやればいい。その権利はある』
何せ息子だからなと、ケルベロスは犬の姿のままくつくつと、到底普通の獣にはできないような表情で笑い小さな前脚の上に顔を伏せた。
『姉君がどのような考えなのかはわからぬ。人間の感情とは時に我らには不可解だ。だが、その愛情を疑ってやるなよ。それでは余りにも哀れだ』
「哀れ?」
『哀れだ。泣いてしまうやもしれぬ』
「それは困るな……」
決して泣かせたいわけではないのだ。
強く美しいあの人を、優しい母を、悲しませたくはない。
『たまにならば愚痴も聞いてやろうぞ』
「悪魔に愚痴るデビルハンターってのもなぁ」
『ならば主の姉君を泣かせるか? それとも一人で抱え込むか?』
「……よろしくお願いシマス」
『報酬は骨でよいぞ。我は鹿の大腿骨がよい』
やっぱり悪魔だ。
そんなことを思いながらもネロはこの見た目ばかりは可愛らしいペット兼護衛の意見に従わざるを得ないのだった。

「ネロがそんなことを……」
は忠実な従者の報告を聞きながら思案する。
ネロはその場にいるのは自分とケルベロスだけだと思い込んでいたが、鍵もなく広々とした事務所で話すのは些か不用心であったとしか言えない。
ベオウルフならばまだネロの意思を尊重し黙っていようが、聞いていたのは久々に暇を出された主である第一主義の閻魔刀であった。
彼女の帰宅早々、ネロとケルベロスの間の会話が筒抜けになったことは言うまでもない。
「ケルベロスも懐かしい話しを持ち出したものだ」
『如何致しますか』
「放っておけ。子守りも仕事の内だ、親の昔話程度ならば罰するほどでもないだろう」
ケルベロスとて聞かれていることに気付いたからこそ踏み込んだことは話さなかったのだろう。
ネロに聞かれていることを告げなかったのは、悪魔らしい悪戯の一環か。
『御意に』
処罰のないことに不満げな従者を宥める様に一撫でし、は事務所の椅子に深く身を沈める。
その目の前の机には同じように閻魔刀の話を聞いていたダンテが腰掛けている。
「愛が足りなかったか?」
「むしろオレへの愛が足りないんじゃないか?」
「無茶を言うな、これ以上どうしろというんだ」
これだけ焦がれているというのに、胸の中はダンテで一杯だというのに、全部許せてしまう程に愛しているというのに。
「お前になら殺されてもいいよ」
唐突な言葉にダンテは目を瞬かせ、しかし姉の言葉が自分への返答だと気付くと、の手を取り指先に恭しく唇を落とした。
その姿を無表情に見つめる薄氷の瞳には一片の揺らぎもない。
傍から見ればゾッとする程冷たい表情に見えただろう、だがダンテはこの不器用な女の胸の内にある温かくて優しいものを知っている。
いつだってそれが欲しくて、与えられるだけでは足りなくて、奪い取っても捧げられても満足できなくて、ダンテは恋しくてたまらなくなるのだ。
ダンテの愛はいつか本能のままに最愛の女を貪り殺してしまうかもしれないような凶暴性を秘めていて、いつ牙を剥くかわからないというのに。
はそれさえも受け入れるというのだ。
「アンタを、傷つけたくはないんだ」
「ああ」
「ネロのことも、あの時アンタが傷ついてんのも知ってた」
「そうか」
「でもな、アンタが傷ついてることに喜んでるオレもいたわけなんだよな、これが」
「そうだな」
わざとらしい程に軽い口調で降り注ぐ告解に、相槌を打っていた唇が薄く吊り上がる。
の手が筋張った逞しい手を持ち上げ、そっと頬を寄せた。
触れるか否かのギリギリで彼女の囁く吐息がダンテの手を生温く撫でる。
「知っていたよ。お前のことだもの」
硝煙の臭いが残る指先に、先程のお返しとばかりに唇が触れた。
柔らかい、しかし色気ではなく慈愛に満ちた口付けにダンテは降参の意を示す為に長い髪を一房浚うとそこに懇願するように口付ける。
ダンテとて、予想していたのだ。
気付かれている、自分の醜い愛とやらに。
それを許すと、示してほしい。
昼間ネロがケルベロスに落とした言葉に同意する。
この愛しの女神様に、それが得られるとわかっていながら許しを請いたがる自分たちは、どうしたってよく似た親子なのだ。