彼女が彼女である為の誰かの腕

雲一つない晴れた夜空は、しかしスラムらしくスモッグや排気ガスで薄汚れた大気のせいで儚い星の光が遮られてしまう。
それでも太陽の光を受けて孤高に輝く月だけは隠しきれない。
今夜が満月と知ったは、事務所の屋上に降り立ち空を見上げた。
体内にある悪魔の因子が、彼女の半分を構成するものが、青ざめた月の光に反応してざわめく。
血管の中に直接アルコールを流されたかのような酩酊感に酔いしれながら、今日は悪魔共が五月蠅そうだと笑む。
この身に力が溢れかえるような感覚には何年経っても中々慣れない。
古来より月の光が魔力を引きだすというが、あながち間違いではない。
闇の生き物の魔力はこの人間界においてはまるで潮の満ち引きのように、夜空に浮かぶ月の満ち欠けに左右されるのだ。
よって満月になると下級悪魔たちが最大限に引き出された魔力による高揚感で暴れ出す。
己も半分は闇の生き物である狩人は獣のように目を細めて、屋上の錆び付き半ば役目を放棄した転落防止柵の上にふわりと体重を感じさせない動作で乗った。
爪先で軋む鉄柵の上に立つと月を仰ぎながら、音もなくその身を地上に投げ出した。
銀の髪が重力に逆らって夜空にその先端を向けるのとは対照的に、魅惑的な曲線を描く鍛え抜かれた身体は風を切り地上へと一直線に落ちてゆく。
後数秒でコンクリートの地面と接触し、空を見据えながらも下へと向かった頭は柘榴のように爆ぜるだろう。
そうなってやっとは体を動かした。
風に嬲られるだけだった身が猫のように撓り、頭と足の位置を入れ替える。
青いコートの裾が靡いて浮き上がったと同時に、舗装された地面が彼女の体重に高さによる引力を上乗せした両足を受け止める。
後から長い銀の髪とコートの裾がそれを追った。
しゃがみ込み衝突の勢いを殺したは乱れた髪を直す反対の手で愛刀を呼び出して立ち上がる。
今頃ダンテも血の誘うままこの街の何処かで存分に暴れていることだろう。
年相応に落ち着きを見せる様になったものの未だやんちゃの過ぎる弟を思い浮かべて表情を綻ばせるが、瞬いた次の瞬間には怜悧な細面は剣の如く冷たく鋭いものへと変わっていた。
「…Come on!」
ぞろりと、建物の影から路地裏から、何処からともなく現れた悪魔たちに向けて挑発しながら刀を鞘から抜き去る。
戦闘とも呼べないような、一方的な殺戮と蹂躙が始まった。
近距離からしか攻撃手段を持たない悪魔たちは白刃の元に伏せられ、或いは鞘や繊手による抉るような殴打から逃れる術はなく、遠くから狙い撃つ者達は青い魔力により串刺しにされ、不運にも生き延びる程度には耐久力のあった悪魔たちはその身を寸刻みにされていく。
攻撃の手は届かず悪魔たちの刃は空を切り、狩人の身を掠めることさえ許されない。
捉えたと思えば残像で、攻撃したばかりの無防備な体を無数の斬撃に襲われる。
「Too easy」
もっと強く、もっともっと、自分を傷つけられるような悪魔はいないのか。
滾る血に任せ刀を振り続け悪魔の死体を量産する。
数ばかりが多い雑魚の群れの中をは器用に泳ぎながら着実に獲物を屠っていった。
鋭いヒールで倒れた息のある悪魔の頭を踏み砕き、彼女は苛立ちのまま音のない咆哮を上げた。
突き刺すような殺気と魔力が悪魔たちを襲う。
を取り囲む悪魔たちが魔力に当てられ硬直する。
それは感情を持たぬ筈の下級悪魔たちの間に初めて生じた、あまりにも圧倒的過ぎる実力差がもたらす『恐怖』と『怯え』だったのかもしれない。
いずれにせよ、あからさまな隙をが逃すはずもない。
彼女の周りにいた悪魔たちは瞬きの間に刻まれ塵へと還る。
辺りの悪魔を一掃したことを確認し、刀を鞘へと収める。
念のため左手に閻魔刀を下げたまま、ふらり幽鬼のように歩き出す。
敵を獲物を悪魔を、血に塗れた快楽を求めて。
足取りは緩やかでも氷色の瞳は飢えた獣そのものの様相だった。
は闇から現れる者を有象無象の区別なく斬り捨ててゆく。
スラムの住人はこんな夜に外を出歩きはしない。
いつもならば街頭で客を引く娼婦たちですら、今夜ばかりは影を隠していた。
誰だって悪魔たちと狩人の戦いに巻き込まれて無残な死体にはなりたくないのだ。
「なんて弱い……」
彼女の目の前に現れたヘル=バンガードの巨体が、鎌を振るう余裕すら与えられずゆらりと揺れる白刃の目に見えない連撃に千切られる。
その間にもは歩を止めず、悪魔の横を悠々と通り過ぎる。
残ったのは塵ばかりで、それさえも風に吹かれての後ろには何も残らない。
折角の月夜だというのに手応えのない敵ばかりで、今夜はハズレかと艶やかな唇が物憂げにため息を吐く。
魔力の強い方へ、多い方へと歩いているのだが、強く感じられるのは片割れの魔力ばかりで、他の悪魔は順調に数を減らしていっているのがわかってしまった。
普通ならば弟が無事なことに喜ぶべきなのだろうが、今の彼女にはつまらないこととしか受け止められなかった。
ダンテが手酷く負傷してればいいと思ったわけではないが、全くの無事というのも行く先に雑魚の群れしかないと知らしめられているようで心中は複雑だ。
「もっと、もっと強く、……私を満たしてくれ」
迫りくる悪魔たちに懇願するように彼女は刀を振るう。
魔界へと繋がる塔は消滅し、魔帝は魔界へと封印され、人間界と魔界を繋げるゲートはそれを企んだ者達ごと叩きつぶし、魔界の覇王は魔界にて滅ぼされた。
次の強敵は未だ現れない。
いや、むしろ魔界の王と名の付く者を二柱も倒してしまったからには、生きている間に彼らほどのデビルハンターが手間取るような強い悪魔が現れるかどうか。
折り重なり積み上がった悪魔たちの躯の山には一人、血溜りと肉塊の上で敵のいない虚しさに喘いだ。
月の魔力を受けて悪魔の血がどうしようもなく疼く。

彼女の瞳に宿りかけた虚無と狂気を切り裂いたのは耳に響くテノールだった。
赤を纏った彼女の片割れは、闇の中でそこだけ輝いているようだった。
少し前からいた彼は黙って悪魔を殺し続ける彼女を見ていたのだ。
「ダンテ……!」
悪魔たちの屍体の山から駆け降りて、伸ばされた腕の中へとは幼い少女のように飛び込む。
ダンテは肩に頭を預け逞しい背中に腕を回し離れまいと抱きつくその細身を受け止め、同じ強さで抱き締める。
薄氷の双眸が今は禍々しい紅の光を宿していることを彼は知っていた。
はダンテよりも魔に染まり易く、月の影響を強く受ける。
東洋では男は陽、女は陰の気を持つというので、それをまともにとるならば双子でありながら片割れだけが魔に傾いているのは女という性別故かもしれない。
だからだろうか。時折ダンテは、血に酔いしれる姉が一番美しいと思うことがある。
悪魔たちを蹂躙し踏みつぶし見下して、ほうっと彼女は恍惚のため息を吐き出すのだ。
薔薇色に上気した頬と興奮に潤んだ氷色の瞳は情事を思わせるほど艶めかしく、閻魔刀を指先で撫でる動作にさえも匂い立つような色香が漂う。
ああけれども、彼が欲しいのはそれではない。
ただ強くて美しいだけの悪魔では足りないのだ。
「帰ろう、
腕の中に収まっている悪夢のように美しい生き物に、煮詰めた蜜のようにどろりと甘い声で囁く。
ダンテのそれは毒だ。
孤高に強さだけを求め立つ一匹の悪魔を、半人半魔という中途半端な枠に引き戻す、彼だけが彼女だけに使えるとっておきの毒なのだ。
彼女は数多いる悪魔たちの王などではなく、彼の魂の片割れ、永遠の伴侶なのだから。
決して逃れることはできない。
逃しはしない。
「帰ろう、俺達の家に」
これからダンテのやることは決まっている。
まずは土埃と悪魔の血に塗れた体の汚れを流し、それからを思い切り甘やかして愛してやらなければならない。
戦いを求め昂ぶっている心と身体を包み込み、刃と死肉と返り血の冷たさでなく、生きた人肌の温かさを思い出させてやるのだ。
抱きしめてキスをして愛していると囁いて、そうして彼女は自分が独りではないと、悪魔ではないと、忘れっぽいその身に教えて。
きっと朝にはいつも通り「おはよう」と優しく笑うのだろう。
狂気と闇を満月の夜に沈め、温かい日溜まりの中でも彼女は生きられるのだから。
ダンテはこの不安定で哀れな片割れを、どうしようもなく愛している。