のぞむもの
ネロが異変に気付いたのは、窓から覗く空がひどく青いある日の朝だった。
昨夜も遅い頃、一階の事務所があまりにも騒がしく一度目覚めてしまったのだが、ごたごたはいつものことだとそのまま眠ったことを覚えている。
ダンテに引き取られて以降、精神力の図太さと順応力の高さが増すばかりのネロである。
それからぐっすり朝まで眠っていた――夜間は警護としてケルベロスとベオウルフがそれぞれネロの寝室と事務所に常駐しており、更には結界も張ってあるため、余程のことでない限り安全は保障されている――ネロだが、目覚まし時計のベルの音に叩き起こされてリビングを兼ねている事務所に降りてくると、その様相が一変していたのだ。
壁に無駄に飾られた奇妙な仮面や牛らしきものの頭蓋骨や髑髏っぽいものに突き刺さった本物の剣、ほぼ裸の女が豊満な胸を見せつけていたポスターが一掃されている。
それはもう見事なまでに悪趣味な装飾が全て消え、突き刺さっていた剣だけは残っていたものの髑髏の額を割らずにキチンと壁に掛けられていた。
ネロは初めて壁の木目がこんな模様を描いていたのだと知った。
強盗の類かと思ったのだが、よくよく考えてみれば幼いながらにもあの壁を飾っていた奇怪なインテリアを持っていく奇特な強盗はいないと断言できた。
何より、並みの人間であれば事務所担当警護係のベオウルフにぷちっとやられてしまうだろう、比喩や冗談でなく。
そのベオウルフが見当たらず、しかしケルベロスも特に何も言わず先導して歩いているので、その後をとてとてと追いかけ歩く。
その細い尻尾が左右に揺れているのを、ああ今日はごきげんなんだなぁと、そんなことを思いながら。
ドアを開けて辿り着いたダイニングには香ばしい匂いと温かい湯気が漂っていて、ネロは本日二度目の驚愕の出来ごとに父親譲りの空色の大きな瞳を零さんばかりにこれでもかと見開いた。
ついつられてか、口も一緒にぽかんと開いている。
「ダンテって、料理、できたっけ……?」
思わずネロの口をついて出たのはそんな言葉だった。
少年の記憶の中に父親の手料理というものはない。
シリアルを皿に盛ってミルクを注いだだけという一品が精々だ。
ツケが溜まるばかりの宅配ピザとTVディナーがネロの食事の主成分だった。
ぱたぱたと先ほどよりもあからさまに尾を振るケルベロスがキッチンに歩いて行くのを見て、ネロは顔を洗うことも忘れてキッチンに向かう。
果たして、調理場に立っていたのは、ネロの父親ではなかった。
それどころか、近づくケルベロスとネロに背を向け調理台に向かう女性は、ネロの記憶が確かならば全くの初対面である。
「……だれ?」
びくっとネロよりも随分と高い位置にある背が震えた。
ダンテやネロと同じ色の髪を肩の辺りで揺らしながら、見知らぬ女性は慌てた様子で振り返る。
繊細に形作られた美しい人形のような顔の造形は男女の差こそ明確にあれど全体的にダンテに似ていたが、瞳は、青空よりも淡い、凪いだ湖の水面の色をしていた。
肌も血管が透けるような白さで、いっそ病的でさえある。
ネロが女性の顔を認識できたのはそこまでだった。
気付いた時には幼い体は抱き上げられ、柔らかい腕の中に閉じ込められていた。
ぎゅうぎゅうと強く、しかしネロを決して傷つけない力で抱き締められる。
「うわっ!?」
なんだこれは!と慌てるものの、無理矢理振り解くことはしない。
正確にいうなれば、ネロには自分の体を拘束する腕の優しさに、暴れだすことも叫ぶこともできない。
知らない筈の女性の腕の中が何処か懐かしい香りがしたからかもしれない。
ケルベロスが黙って座っているのが見えたので、まあいいかと疑問の答えを先送りにして、ネロは女性の背中に短い腕を伸ばした。
些か低い体温に全身を包まれて、頼りなさげな細い肩に頭を預けると、心地よい安堵感が沸き上がって来る。
だから、多分それは、心の奥底にしまっておいた、ずっと出さないようにしていた、ささやかな願望の欠片だった。
「mom……」
だってネロは知らないのだ。
こんなに優しく自分を抱き締める腕を。
ダンテが抱き上げてくれるのとは違う、優しく力強さよりも慈しみを湛えた腕を。
それはもう喪われてしまったのだと、失われたものなのだと、何となく気付いていたから。
遠くへ行ってしまったと、ダンテはネロが母親のことを聞く度に言うけれども、その瞳の中にある悲しみに気付いてしまったから。
けれど、この人がこんなにも優しく抱き締めるから、こんなにも容易く欲しかったものを与えるから、ネロはずっと押し隠していた寂しさを堪え切れなくなってしまった。
だから口から零れたのは、きっと、自分を抱き締める腕の持ち主のせいで、だからネロが満足するまで、もう少しだけ、抱き締めているべきなのだ。
細い肩に頭を押し付けるネロに気付かれぬように、ケルベロスはとてとてとシャワーから上がって来て静かに親子の再会を見守るマスターの足元に侍る。
ダンテは何も言わずに、ぽろぽろと音を立てずに涙を零していた。
これが失っていたもの、そして取り戻したもの。
全てが愛おしくて、あまりにも尊くて、ただただ涙を流すことしかできなかった。
「改めて自己紹介でもしようぜ」
そうダンテが告げたのは少し冷めた朝食を三人で平らげたテーブルだった。
ネロは真向かいの席に座り優雅な動作で珈琲を飲んでいる女性にちらりと目を向ける。
ダンテはネロを指さしてお前からだと促す。
「ネロ、9さい、です。ダンテが父さんです。えっと、プライマリースクールに通ってます」
途端に微笑ましいものを見るような、ひどく愛おしいものを見るような視線を向けられたので、ネロは全身がむず痒くなる感覚に襲われて顔を背けた。
嫌だったわけではないのだが、慣れない種類の視線が気恥ずかしい。
「んで、こっちはバローダ」
女性はこくりと頷くと胸元からメモを取り出し、ボールペンでさらさらと書きつけると、ネロの手元に差し出した。
【私の名前は。ダンテの双子の姉だ。声が出ないので、筆談となることを許してほしい】
それから、少しだけ迷ったように手元を彷徨わせ、ダンテの方に視線をやる。
バローダの言いたいことを正確に読み取ったダンテは、ひとつ首肯し、ネロへと向き直る。
「これから三人で一緒に住むことになるんだけどな、お前に言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
かつてないほどのダンテの真剣な表情にネロの中で不安が沸き上がって来る。
彼をこんな表情にさせるような、その手を煩わせることとは何だろうと力づくで薙ぎ払う父にこんなにも厳しい顔をさせるものが、未だ十にもならぬ幼い身にはとても想像できない。
息を飲み、彫刻のような薄く端正な唇が開かれるのを恐々と見ていることしかできなかった。
「は、お前の母親だ」
ぱちくりと、ネロは少しの間呆けて、やがてダンテの言葉の意味を理解するにつれて愛らしい顔を困惑で満たした。
「はダンテのお姉ちゃんだろ」
「ああ、そんでお前の母親なんだよ」
「じゃあダンテはオレの父さんじゃないの?」
「いーや。俺は正真正銘、お前の父親だ」
「はオレの伯母さんだろ?」
「お前の母さんだよ。お前を産んだのは、だ」
「オレは、ダンテとの、子どもなの?」
「そうだ」
まるで白昼夢を見ているように現実味が薄かった。
死んだと思っていた母親が生きていて、彼女は父親の双子の姉であった。
幼い身でも悠に理解できるおぞましい禁忌に、しかしネロが零したのは恐怖でも拒絶でもなかった。
「オレは、いっしょにいてもいいの? オレは、ダンテと、母さんと、いっしょにいてもいいの?」
疎まれるべき存在であるのは自分だと、ネロは自然と考えた。
だってきっと、もうこの二人は離れられない。
仮初とはいえ死でさえも二人を引き離せなかったのだ、神でさえも彼らを邪魔することはできないだろう。
二人だけならきっと何処でも生きていける。
邪魔になるのは自分だろう。
幼い心にいつまでも突き刺さる事実、だって自分は一度捨てられた。
純粋で真っ直ぐな子どもの言葉に、真っ先に反応したのは母親だと紹介されただった。
眉を寄せて美麗な顔を悲しみに歪めたことをネロが認める前に、青く魔力が揺らいだ刹那、彼女の体はその場から姿を消していた。
目の前で人が一人消えたという現象に驚く間もなく、ネロの体は朝食を食べる少し前のように、今度は背後からぎゅうぎゅうと細腕の持ち主に拘束される。
見知らぬ母の腕の中、柔らかさと低い体温、懐かしさの理由がわかった優しい匂いに、ネロは無意識の内に詰めていた息をそっと吐き出す。
ついと、白過ぎる指が何もない空をなぞる。
魔力の形成される音、冷たい青の光が指先の跡を残すように形作られてゆく。
【一緒にいたかったの。でも、愛していたから、連れて行けなかった】
魔力の塊がゆっくりと形を失くしていくように、ほろほろとの瞳から透明な涙が溢れた。
白い頬を濡らした滴が抱き締めた幼い肩に零れ落ちる。
綺麗だなと、ネロは素直に思った。
「泣かすなよ、ネロ」
ぺちんと軽く額が叩かれた。
ダンテは困った表情に少しだけ悲しみの色を滲ませて、二人を見ている。
「はな、お前を死なせたくなかったから魔界に落ちたんだよ」
こんなに儚い人がそんな後先考えない突発的な行動に出るのだろうか。
泣いているからはそんな直情的な部分は見受けられない。
でも魔界にいたというのならば、ずっと孤独にいたのだろう、ダンテという同胞がおらず悪魔だけの世界で。
「母さんも、さみしいの?」
【寂しいよ、ネロがいないと寂しくて、泣いてしまう】
ああそうだろうなと、ネロは呼吸をするように納得した。
ネロがここを去ってしまえば、母はこうして見る者の胸を掻き毟るような悲しい顔で、透明な真珠を零すのだろう。
「じゃあ、いっしょにいてあげる。ダンテと母さんと、オレとで、三人で暮らそう」
泣き顔も綺麗だけれど、笑顔はきっと更に美しいだろうから。
だから泣かないでと、ネロはの頬に手を伸ばす。
白磁の肌は触れると少しだけ冷たかった。
「だから笑って、母さん」
幼い要望に応えるために静かに微笑んだ彼女は、今まで見た誰よりも儚く尊かった。